週報より


『 窓 』

『 週報 』おもて面にある〈コラム〉の加筆版

  旭東教会の日常のあれこれです 

※『週報』では350字程のものです


【 旭東教会の集会室に設置されているステンドグラス 「最後の晩餐」 】
【 旭東教会の集会室に設置されているステンドグラス 「最後の晩餐」 】

 京都在住のステンドグラス作家(キリスト者)の作品・「最後の晩餐」が集会室の〈窓〉として納められています。大きさは2m×1mほど。旭東教会のちょっぴり自慢の〈窓〉です。集会室が実に格調高い空間になっています。教会の側道からもご覧頂けるように設置されています。ぜひ、お出かけ下さい。


※バックナンバーは容量の都合で削除しています。


2021年4月4日 復活祭・イースターにて みんなの教会学校の時間に みんなは大人も含めてみんなです(^^♪
2021年4月4日 復活祭・イースターにて みんなの教会学校の時間に みんなは大人も含めてみんなです(^^♪

3月23日(火)午後 ブログに紹介した観音院さんの境内にて 絵馬・おみくじ処
3月23日(火)午後 ブログに紹介した観音院さんの境内にて 絵馬・おみくじ処

 2021年3月28日

 『 時には泥臭さも 』

 

桜の蕾の写真を撮りに、裸祭りで知られる観音院さんの横・向州公園に出掛けた。直線距離ではおそらく400㍍あるかないか。歩いて5分、車でも駐車場のことを考えれば同じ位の時間で着くところにある。

 

観音院さんの境内を久し振りに歩いていると、近づいてみたいものが目に留まった。

 

鈴なりになっている〈絵馬とおみくじ〉である。

 

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少しの時間だったが、私の目に入ってきた絵馬に記された言葉は、自然に見えた範囲でも、いずれも心からの執り成しを願う、愛に満ちた嘘のないものとわかった。

 

家族や友人のために、癒しや祝福を心底祈願しておられるのだ。本当に切実な思いでお詣りに来られたことがおのずと伝わって来た。

 

難病か、災いからの厄よけ、当然の思いだろう。教会にだってこういうものが必要じゃないか、と素朴に思った。合格祈願だって普通のことだと思う。

 

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20年近く前、新潟県上越市に暮らしていた頃、今では本当に考えられないほど有難いお交わりを下さったカトリックの神父さま達との出会いがあった。2ヶ月に一度位だったか、会場は持ちまわりで、小さな祈りと学びの時、分かち合いの時間をもたせて頂いて居た。聖公会の司祭もご一緒して下さっていた。

 

中でも、イタリア人の陽気なフランシスコ会修道士の故・マリオ・カンドゥッチ神父さま(*当時70歳位)や、同じくフランシスコ会の修道士で、これまた少し前に帰天されたドイツ人のフーベルト・ネルスカンプ神父さま(やはり、70歳位)たちと本当に親しくさせて頂いた。

 

お二人は修道士なので共同生活をして居られたのだが、その個性の違いは、イタリアとドイツの人々の気質を垣間見るめったにない機会となり、これまた楽しいものだった。お二人にはいつも笑顔があった。

 

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1960年代に数年にわたって開催された第2バチカン公会議というものがあるが、その公会議に(お手伝いだろうか)足を踏み入れていたというマリオ神父さま。

 

カトリック高田教会の司祭として、そして、関連の幾つもの附属施設で、その賜物を本当に素晴らしく活かされて目覚ましいお働きをエネルギッシュになさっていたのだが、ある時、こんな言葉を口にされた。

 

「日本の教会には泥臭さが足りないねぇ」

 

目を少し丸くされて、真顔で語られたのだった。小さなウインクもなさったかも知れない。会話の文脈からすると、そこでの教会とは「プロテスタント教会」のことだった。

 

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私たちの伝道・宣教が世に仕えるものであるとしたら、他所様(よそさま)に何と言われようと、旭東教会版の〈絵馬や御言葉おみくじ〉を準備するくらいの、柔らかな心があってもよいのではと思う。

 

確か、函館市内の幾つかの教会を巡り歩いた時に、ガチャポンはなかったけれど、普段は教会堂に足を運ぶことのないであろう観光客の方のために(私も観光したのだが)、小さく・美しくクルクルッと丸められた御言葉かマザーテレサの言葉とかが、そっと置かれていたと思う。

 

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教会のお土産物としての絵馬を販売し、家族の為にもって帰ってもらい書き込んで頂いた後に、旭東教会にもってきてもらい、ぶら下げ処を設け、定められた時に、共同祈願をする時間をもつとか。

 

教会玄関に無料のガチャポンを置いて、みんなの教会学校に出席した子どもたちに、楽しみをもたせてあげるとか。

 

(こちらは大人向けだが)帰り際に100円で御言葉おみくじを引ける、なんていうのは、どうだろうか。

 

書道の賜物や、細やかな作業が得意な方たちの腕を活かすことだって出来るはずだ。

 

そして、一般の教会の皆さんには、月に一度御言葉を選んで来て頂いて、これを書いて下さい、というリクエストボックスがあってもいいと思う。その選びのために、かつて無いほどに聖書を真剣に読み始めるかも知れないではないか。

 

一石二鳥どころではないお恵み、いや、楽しげな空気を感じるのは私だけだろうか。

 

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私たちには、目に見えてのご利益を提供することなど出来ないかも知れない。

 

でも、マリオ神父さまが言われる、泥臭さに通じるようなものがなければ、この国で福音はいつまでだっても広がらないだろう。かつて、「土着化」という言葉が日本の神学の世界にもあったことを思い出す。

 

楽しみながら、みんなで真面目に伝道したい。私は心底、そう願っているだけなのだ。(森)

 

 


2021年の受難節も深まりました 棕梠の主日を前にしての礼拝堂です
2021年の受難節も深まりました 棕梠の主日を前にしての礼拝堂です

            2021年3月21日

           『 顔でも伝道 』

                            

3月15日(月)の昼過ぎ、旭東教会 御中で届いた手紙の書き出しはこうだった。

 

「こんにちは そして はじめまして 旭東教会様からの大きな封筒を我が家に発見しました時には、心臓が止まるかと思うほどの驚きでした。少しばかりの感謝を送らせてもらったものの・・・」と。

 

何だか、その時の情景が思い浮かぶようで、たのしく、嬉しく、笑顔になる。

 

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2020年11月号の『信徒の友』の「日毎の糧欄」がきっかけで、ホームページやYouTubeをご覧下さっている大阪府在住のご婦人からの万年筆かそれに近いペンによる手書きのお便りだった。

 

毎日、「日毎の糧欄」を通じて、お祈りに覚える教会のことを先ずパソコンで検索しておられるとのこと。(兼務する)十文字平和教会、旭東教会の順でホームページをご覧下さったようだ。これはとてもいい方法だと思う。

 

お便りには、コロナ関連の事情で礼拝も短くなり、交わりも制約がある様子が記されていた。ご苦労なさりながら信仰生活を送られていることが伝わってくる。

 

そのような中で、地方にある私たちの教会の働きが、コロナ禍においても、そう大きく制約されることなく、少しでもお役に立てているのならば、なんと幸いな事だろうか。

 

ホームページ更新のネジがしっかりと巻かれたようで、重ね重ね感謝、というものだ。

 

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少し進んで、にわかに語調が変わり、こう続いていた。

 

「ここから失礼を承知で申し上げます。おゆるしくださいませ。ホームページに写しだされた森牧師のお顔や雰囲気が、遠くにいる私どもの長兄にそっくりだったのです。一人暮らしの母がきっと喜ぶに違いない、と連絡したのが始まりです。母は高齢ながら何とかパソコンやスマホをギリギリ使えています。本当に励みになると喜んでいる次第です。お送り下さった おはがき、週報、会報なども、神さまの愛の業の一つ一つを感謝しながら、大切に読ませていただきます」

 

とあったのだ。

 

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昨年8月に洗礼を受けられた光子さんからも、洗礼準備会の時だったか、「もりせんせいは、私の兄とそっくりなんです」伺っている。

 

何とも不思議なことが起こるものだ。

 

三人の似たもの同士?が揃ったら、どんなことになるのか、とぼんやり思ったりした。

 

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さらに、なかなか私の日頃の説教について、感じて居られることを、とても簡潔な言葉で記してくださっていて大いに励まされたのだが、さらに、それに続けて、教会全体への素晴らしい贈り物言葉があったのだ。

 

「・・・教会の祝福されたご様子など、本当に神さまって素敵だなぁ と うれしくなります。神さまのご配慮は、完璧ですね。これからも、お守り豊かでありますように。」

 

と。

 

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お便りの最後には、ご家族への信仰の導きについて「どうか お祈り下されば 幸いです」「感謝」と丁寧に書き添えて下さった。「乱筆乱文の数々、おゆるしくださいませ」をさらに記して下さったが、このような乱文であったら、いつでも大歓迎である。

 

さっそく、祈祷会(「賛美と聖書とお祈りの会」)でも紹介してお祈りの時をもたせて頂いた。

 

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まだ見ぬ信仰の友が大阪にも居られる。

 

「不思議」に神の働きあり、と改めて思う。

 

そしてこのお便りは、写真の封筒にあるように、旭東教会宛に届いていることをしっかりと受け止めたい。

 

このお手紙は、大阪発の『旭東教会への福音書』だったのである。(森)

 


2021年3月 礼拝の講壇にて 賛美
2021年3月 礼拝の講壇にて 賛美

   2021年3月14日       

 『 6年間を振り返りました 』

 

今月末で、旭東教会に着任して丸6年が終わり、7年目となる。

 

4月の定期教会総会に向けての振り返りを心の中でし始めているからかも知れない。限られたスペースではあるけれど(実際の『週報』では350字に満たないです)、教会形成・伝道・宣教を振り返ってみた。

 

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結論として言えるのは、大きなことなど一つも出来ないし、目の前に示されていることに対して一所懸命に仕え続ける事しか出来なかった、ということである。

 

少し表現を変えるならば、小さな事柄への丁寧な関わりに心を込めて仕え続けること、ただ本当にそれだけが、教会形成のための営みであり、伝道・宣教だった。

 

祈らずにはおれないことがあり、忍耐したこと、ぽろぽろと泣いたことも一度ならずあった。何かを待つことも多かったと思う。

 

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そして、週毎に講壇に立って説教者として語らせて頂くために、今ここでのみ言葉に期待し、信頼して来たと思う。語ることができますように、福音が示されるようにと祈った。み言葉の文脈、時代の文脈、教会の文脈を何とか紡ごうとしてきた。

 

焦ったり、ぼやいたこともあった。でも、諦めたくなかった。必ず、聖霊という名の風が吹いて来るはずと励まし合った。

 

そして、気が付いてみると、やはり微風が吹いていたことを知った。

 

その微風を察知する感覚は、幸い、今、少しばかり与えられているようにも思う。

 

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今ここでの最善の礼拝の構築こそ、宣教の最前線だと信じて疑わなかった。だから工夫をしてきた。そして、過去に身についていた私たちの普通を疑った。

 

例えば講壇の位置、スクリーンの場所にせよ、試行錯誤、微修正を何度繰り返したことだろうか。予算を組むことが難しくなり、今となっては懐かしむことができるが、礼拝空間を集会室に移動してみたりもしたのだった。

 

祈祷会(「賛美と聖書とお祈りの会」)にも魂を注いだ。準備する時間は楽しかったし、それが、牧師にとっての素振りだったり、逆に息抜きだと気付いた。

 

頑張り続けて、燃料切れに気付き、一年位前だろうか、「少し休ませて下さい。このままだと長持ちしません」と役員さんにお願いして、受け止めて頂いた。

 

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何より最近感じるのは、宣教や伝道、そして牧会は、牧師独りでは出来ない、ということだ。

 

とりわけ、礼拝出席30名に、いくかいかない位の私たちの規模の教会は、委員会制度も成り立ちにくい。アクティブなメンバーが限られているのだから、役員会メンバーは大変だったと思う。そしてまた、本当に必要な事だからそうするのだが、新たな取り組みを私が提案すると、前向きな事柄とはいえ、時間も必要だった。

 

右肩上がりの成長は普通には起こらないのが現実だと思う。

 

だからこそ、教会全体が真の意味で一致して心を合わせる姿勢がなければ、本当の意味での成長(数的な変化がなくても、あるいはマイナスでも)・本質的な深まりと成熟はないと思う。

 

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すぐに成果が出なくても全く構わないし、いつ芽が出るの分からない種蒔きを続けて来たように思う。

 

そして、この一年半ほどの間に、ポツリぽつりと見え隠れしてきた点が、おぼろげな線で結ばれ、ある部分においては、少しいびつさがあったとしても面となっている気がする。何かが紡がれつつある手応えを感じるのだった。

 

このことを、私たちはみんなで喜びながら進みたいものだと思う。嬉しいことではないか。

 

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現在の旭東教会に、道を求め、さまよいの中にあった方がたどり着かれ、いつしか居場所を見いだし、信仰の旅路をご一緒し始めているのは決して偶然ではないはずだ。

 

やせ我慢か根性のようなものも必要だったけれど、コツコツと更新を続けて来たホームページの力は、やはり確かにあったと思う。

 

皆さん、何からかの形でホームページをご覧になって、旭東教会にたどり着かれたのだから。

 

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つい最近、外部の方からの、本当に嬉しいお便りが届いた。

 

「(旭東)教会の皆さまの祝福されたご様子など、本当に神さまって素敵だなぁとうれしくなります。神さまのご配慮は完璧ですね。これからも、お守り豊かにありますように。」

 

やさしさとあたたかさを感じる万年筆の文字で記されていた。

 

嬉しいのはこちらの方だ。何度も読み返した。

 

どうやら、ホームページやYouTube配信などから垣間見える旭東教会は、私が最近感じている教会の空気と同じように、「いい感じ」のようだ。

 

よかった。

 

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あれこれと、私たちの取り組みを振り返って見ると、意外なほど、旭東教会オリジナルの取り組みが多くなってきたことに気付く。

 

思うに、「救いのネットワーク」が構築され始めているのではなかろうか。

 

誇りをもちたいと思う。

 

そしてなお、「おまえさんたちは、馬鹿だ」「ふつうじゃない」と言われることがあってもいいではないか。

 

「そうなんです」「愚か者です」と認めながら、愚直に、誠実に、真実に、教会の皆で主に従い、隣人に仕え、共に生きて行きたいと願う。(森)

 

 

 


2021年3月7日 献花です。菊を超えたキクのようにも見えます。感謝です。
2021年3月7日 献花です。菊を超えたキクのようにも見えます。感謝です。

2021年3月7日

【窓】

『 旭東教会オリジナル 』

 

 1962年~1965年にかけて開かれたカトリック教会の〈第2バチカン公会議〉の後(のち)、「カトリックが変わった」と世界の人々に実感させたことがある。

 

 〈ラテン語〉のミサ(*礼拝)が〈各国の言葉〉に変わったのだ。そうじゃなかったの?と思われるかも知れないが本当のこと。

 

 今、旭東教会が週毎に捧げている礼拝。

 

 大変革ではないけれど、教会の情況に即したオリジナリティーに満ちた挑戦があることを誇りに思いたい。

 

 「オリジナリティー」とは国語辞典によると「考え方や行動の仕方について世間並でない独自の新しさ。活動をして行く能力・独創性」(*精選版日本国語大辞典 )とある。

 

 礼拝に限ってみても、何がそうかと言えば、例えば、「前半の報告・みんなの教会学校・打楽器の音色」。どれも旭東教会オリジナルである。

 

 他の教会との比較などもはや無意味であろう。旭東教会は旭東教会の文脈で、必然的に、あるいは、選び取って取り組んで来ていることなのだから。

 

 「宗教改革は礼拝改革でした」とは、わが恩師(本当に多くの方がその存在から教えられた)今橋朗先生の言葉(他の方が言っているのを私が知らないだけか?)だ。

 

 日本聖書神学校の礼拝学の時間(神学校の3年目に受け、4年目は次学年の講義に勝手に潜り込んだ)に聴いた時は、目から鱗が落ちる思いだったし、心が弾んだのを思い出す。

 

 つまりこれ、教会は礼拝が変わらなければ何も変わりませんよ、ということの最も分かりやすく、納得のいくことばなのである。

 

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 礼拝の枠組みを外れて考えて見ても、様々な取り組みを、私たちの教会はなそうとしたり、あるいは、始めていることをしっかりと心にとめたい。

 

 「葬儀専用のホームページ」をオープンしていること、「ちょっと一息 休もう屋」という働きを形を変えながらも続けていること。さらに、異種家族・同伴家族である、地元のペット葬祭専門の方と相談し、「ペット葬儀を引き受けること」をあきらかにしていること。

 

 そして、「グリーフケアの集い」を、6年間にわたってコツコツと続けてきたことも、地味なことながら、旭東教会が開かれた教会として歩み続けていることの明らかな徴だと思う。

 

 「Google」や「edge」「Yahoo!」の検索バーによって「グリーフケアの集い」を検索してみて頂きたい。

 

  真宗 大谷派 存明寺さんに続いて、もうずっと前からだが、全国で旭東教会のグリーフケアの集いが、2番目に探している方には紹介される。お付き合いのある、家族葬にとりわけ強く、かなり志の高い葬儀屋会社の社長さんに、4年以上前だろう、そんなことを話すと、目の前で検索され、かなりの驚きの声を上げられたことを思い起こす。

 

 グリーフケアの集いを行うには、地理的な問題もあるし、コロナ関連の事情もあるため、さすがに県外から、ということはないけれど、自負心に近いものを持つべきではないだろうか。

 

 礼拝の外部に向けてのライブ配信も、コロナ関連の事情から、この1年、どちらの教会でも当たり前のように始めたが、私たちは、右往左往しながら、既に3年以上の取り組みの積み重ねがあることは忘れないでいたいと思う。

 

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 2020年度を振り返り、四月以降の新年度に向けて準備を始める時期に入った。

 

 少し教会全体として意識、誇りを高くもって、その上で、それだからこそ謙虚に、前向きな心で、こつこつと仕える教会であり続けたいと心から願う。(森)

 

 


2021年3月4日 牧師の休暇中に、市内の吉備津神社を散策 梅の花を見に来たところ、紫陽花が目に止まった
2021年3月4日 牧師の休暇中に、市内の吉備津神社を散策 梅の花を見に来たところ、紫陽花が目に止まった

      2021年2月28日

       【窓】

   『 ある女装家の言葉より 』

 

▼ナジャ・グランディーバという女装家が居る。

 

テレビにも出演することがあるらしいが、私は大阪ABCラジオ「ウラのウラまで浦川です」という番組(15時~夕方迄)で時に声を聴く。

 

私は彼女がどんなコメントをするのかいつも気になる。本質を見抜いて発信するその眼力が素晴らしいからだ。

 

▼以前、元・SMAPで俳優の草なぎ剛(46)さんが、大人用紙おむつブランド「アテント」の40周年を記念したCMに出演。私でもはけるようなオムツが新発売となった、と知った時のことを思い出す。

 

その時わたしは、オムツのこと(教会の高齢化の課題に触れました)、そして、ナジャさんの言葉も役員会で紹介した。

 

ナジャさんは、「わたし、もっとカラフルな色を考えて欲しいわぁ」と書き込んでおられたと思う。

 

▼そんなナジャさん。「疲れ果てるとある女性(ひと)に電話を入れることにしてんの」と言われたことがある。

 

その方はただ一つのことしかナジャさんにしないそうで、とにかくナジャさんを誉めちぎってくれて、凹んでいるナジャさんを支え続けてくれる存在らしい。

 

これは、本当大きな力だろうな、と思ったものだ。

 

▼先週(2/21)、説教で触れたシモン・ペトロ。彼はイエスさまに「サタン、引き下がれ」と叱られた。彼の人生の汚点である。

 

初代教皇と位置付けられるような立場ならば、無かったことにしたいところかも知れない。

 

だが、シモン・バルヨナという本名で呼ばれたペトロは、実は、見えない所で、イエスさまに誉められることもしばしばあったのではと想像する。

 

▼「人は」、「教会は」、いったいどのような言葉で成長し、成熟して行くのだろう。(森)

 

 


2021年2月21日 みんなの教会学校の時間(決してこども向けの時間ではありません)「キリストの平和」というさんびかをこの日初めて手話賛美でリードするN君。リードするN君です。教会にとってとっても喜ばしい出来事です。本当にね。
2021年2月21日 みんなの教会学校の時間(決してこども向けの時間ではありません)「キリストの平和」というさんびかをこの日初めて手話賛美でリードするN君。リードするN君です。教会にとってとっても喜ばしい出来事です。本当にね。

                    2021年2月21日

                          【窓】

           『 旭東教会この一年』

 

毎年この時期、コロナ関連の事情がなければ通常5月末頃に行われる東中国教区総会の慣例で、教会の年度報告を400字でという宿題が届きました。

 

先延ばしするのが苦手な私。さっそく、以下のようにまとめてみました。

 

書き足し始めると、きりがないのがこういうものですので、加筆は最小限を目指すかな?

 

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▼誰もが安心して居場所を見いだせる教会でありたいと願い努力しました。この言葉、週報の「今週の祈り」でわりとしばしば、しかも、ずっと以前から掲げている言葉です。なので、考えてみると、2020年度特にそうだった、ということではないかも知れません。

 

▼子どもと教師だけの礼拝(ジュニアサークルという名で続けて来ました)は継続困難で休止。「みんなの教会学校」を礼拝の中で開始し、子どもの出席があっても無くても20分の時間を過ごします。

 

この時間を続けるのには、特に、みんなの教会学校の教師たちには工夫も努力も必要です。小説教のほか、聖書絵本を一同で見たり、証しを聴くこともあり、かなり豊かなヴァリエーションになって来ています。

 

春先からは、ギターによる「さんびかを歌おう!」も月に一度位は行う予定ですので、みんなの教会学校は、いよいよ楽しくなるかも知れません。

 

▼献堂100年近い礼拝堂を大切に維持するため、会堂内部の改修工事をコツコツ進めました。

 

講壇を低くし、掃除がしやすい丈夫な床材に変えるなどして、歴史ある会堂を維持しながら、美しく心も落ち着き、機能的な空間が整い感謝です。

 

春先だけで終わるかなと思いきや、様々にこの時を逃さずにいたしましょう、ということで取り組みは続き、今週、2月23日の休日にも大工さんやペンキ屋さんがお出でになりました。

 

▼悲嘆を抱える方々の心の置き場、語らいの場としての「グリーフケアの集い」には教会外の方々が半数程は来会され6年目が終わろうとしています。地の塩・世の光の役割を少しでも果たせればと祈っています。

 

▼現在の旭東教会の礼拝出席者の平均年齢は70歳位です。若返りも必要、という視点もありますが、私は、この年齢層の方々が増えていくことも大事だなと実感するこの頃です。

 

60歳の方でも、おそらくそこから30年はあります。人生90年がほぼ確実のこの時代。つまり、残りの人生三分の一を教会と共に歩んでいただければとても嬉しいことです。

 

えっ?若い人はいないの? ホームページの今週の3枚!で是非ご確認を!(森)

 

 


2021年度 世界で一つの旭東教会の礼拝堂・荊冠です。
2021年度 世界で一つの旭東教会の礼拝堂・荊冠です。

 2021年2月14日

【窓】

『  贈る言葉  』

 

2月8日(月)の午後、母校・日本聖書神学校の支部長会議がインターネツトのZoomを利用して開かれた。

 

四月から任地に赴く新卒の方々との顔合わせもあり、先輩として1分間の励ましの言葉を送る時間があった。

 

**************

 

だが、時間制があったこともあり、伝えきれず、後悔していることがある。

 

それは、神の召しと信じて遣わされた地で行き詰まり、思いの外早く「辞任」となったとしても大丈夫。必ずあとで生きてくる。やり直せる、ということだった。

 

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卒業の頃、大先輩であり、校長でもあった故・小林利夫先生から「十年間ひとつの教会で仕えてこそ一人前」という言葉を聞いて育った私は、その言葉に縛られ、「自分はダメな牧師なのか?」と俯(うつむ)くこともあった。人生本当に様々なことが起こり、転任や無任所という頃もあったのだった。

 

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だが私は「端から見れば、逃げ出したようにしか見えない情けないことがあっても大丈夫。やり直せますよ」と贈るべきだったと今は思っていて、実際、いつか伝えてあげたいと思うのだ。

 

なぜなら、復活のいのちに生かされ、回り道・挫折・傷・恥を知る経験なくして、今、旭東教会・十文字平和教会に仕えている森言一郎牧師は存在しないからだ。

 

長い間、ひとつの教会にとどまって仕える事も大事なことであり素晴らしいことと思う。

 

しかし、幾つかの教区・地区、あるいは分区の成り立ちを知り、教会というのは、様々な生い立ちを背負い、そのときその時の事情があるものだ、と知っていることは決してマイナスではない、と確信しているこの頃である。

 

ほんとに、血となり肉となっています。(森)

 

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※以下、初めて読んだ時に、本当にそうだなぁ、と思った記事です。

 

青山学院大学の宗教部長・塩谷直也先生が、学生たちに伝えているのは、表現は違うけれど、本質的にはほぼ重なった思いかなというのが実感である。塩谷先生、幾つかの本の中でも、同様のことを記しておられます。

 

以下、次のWebサイトの対談より塩谷先生の言葉を引用。

http://www.realiser.co.jp/interview/aoyamagakuin/

 

【 逃げ道はいくらでもあるよ、ということをきちんと伝えなければいけません。聖書の中には逃げていくひとがたくさん登場します。聖書は「逃げていいよ、そこにも神はいるから」と伝えています。学生たちは「逃げられない」ことに苦しんでいます。「逃げていいんだよ」と伝えた時に、どれだけほっとしたことかと、よく学生たちが言います。】

引用 おわり

 


2021年2月7日の講壇献花です 春です
2021年2月7日の講壇献花です 春です

                      2021年2月7日

    【窓】『職人になってみました?』

 

生まれて初めて挑戦したことがある。

 

ペンキ塗りだ。

 

講壇を含む、音響関連の小さな工事が一段落ついた2月2日(火)の昼過ぎ、前から気になっていた講壇下回りの濃い茶色の塗装の剥(は)げを補修してみよう、と思い立った。

 

昨年5月に、講壇を新しく造り変えた時に様々な手が入ったのだが、講壇の足回りは、掃除機が少しぶつかるだけでも塗装が剥げていく。何しろ、目の前で、塗っては乾かしを繰り返す作業を見ているのだから、あーこれは、剥げるのでは、ということに気付いていた。

 

ペンキ屋さんが作業し終わった直後、小さなバケツに塗料を調合したペンキが残っていた。

 

これは随分余っているな、と思い、職人さんに駆け寄った。私はペットボトルを差し出し、「あ、あ、あのー、これに、余った塗料を入れて下さいませんか」とお願いしたのだった。気持ちよく応じて下さった。こげ茶色と薄い青色と、二色をゲットした。

 

その後、半年を過ぎて、剥げているところが、ぽつぽつと見えていたのだが、見て見ぬ振りをしていたわけでないけれど、忙しさにかまけて、そのままにしていたのだった。

 

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さて、教会から徒歩2分のところに、わが町西大寺の頼りになる道具屋さん「浅岡金物店」がある。裸祭りで有名な観音院の入り口の所である。

 

「浅岡金物店」。早朝のスロージョギングで通り掛かった時に注意してみていると、朝7時頃には、とっくに開店準備が整っているお店だ。年の頃70歳位のご夫妻が黙々と仕事をしておられる。

 

この、朝7時のスタンバイとは、現場に出掛けていこうとする職人さんたちが、必要なものを朝一番で買いに来ることが出来ることを意味しているのだ。

 

歩いて「浅岡金物店」に行ってみた。おじちゃんの指示を受けて、おばちゃんが案内してくれた。そして、奥まったところから一本110円の刷毛を選んで購入した。

 

塗装職人さんに残して頂いたペットボトルの中のかなり粘り気のある塗料をコップに流し入れ、養生テープを職人さんの仕事ぶりの残像をまねながら貼り付け、買って来たばかりの刷毛(はけ)を手に、時に床に這(は)いつくばって作業した。

 

去年の5月以来、各分野の職人さんが礼拝堂に出入りされたが、ペンキ屋さんの仕事ぶりも側で盗み見ながら、「なーるほど、こうするのか」というのを自分でやってみようと思ったのだ。

 

              **************

 

 

本当にタッチペイントに過ぎないのだが、これ、思いの外おもしろい。次はどなたか、ご一緒しませんか。私抜きでして下さっても全く問題ございません。はい。(森)


1月31日の礼拝説教で、森牧師が一部を紹介している本がこちら。
1月31日の礼拝説教で、森牧師が一部を紹介している本がこちら。

  2021年1月31日

 【窓】『変わり者の教会?』

 

先週、1月24日『週報』・お知らせ欄に、1月30日(土)午後2時から開催の、「ちょっと一息 休もう屋」の案内を次のように掲げた。

 

「頑張り続けて来た方、様々な疲れのある方、ぼやきたい方、苦労を分かち合いたい方、近況をお聴かせ下さる方、是非、お集まり下さい。すっきり、さっぱり、発散いたしましょう。」と。

 

2019年秋に始めた「ちょっと一息 休もう屋」は、元々は、介護・看護に疲れている、教会外部の方をお迎えできるように、ボランティアの方々と共に、良質なお茶、珈琲、紅茶を準備して・・・という主旨で始めたものだった。

 

世に開かれ、仕える教会としての姿勢を持ちたい、という祈りをもって本当に楽しく、真面目に、努力していたのだった。

 

だがしかし。

 

2020年1月下旬頃からの新型コロナ関連の事情によって、しばらくのお休み期間を持つことになった。

 

そして一年近くのお休みを経て、当面は、教会内部の方たちの息抜きの場を設けよう、ということで方向修正を行い、時を過ごし始めることにしたのだった。

 

その第二回目が、1月30日(土)の会というわけだ。

 

もう一度、週報のお知らせ欄をコピーして貼り付けてみる。

 

「頑張り続けて来た方、様々な疲れのある方、ぼやきたい方、苦労を分かち合いたい方、近況をお聴かせ下さる方、是非、お集まり下さい。すっきり、さっぱり、発散いたしましょう。」

 

このような案内をする教会はよそにあるだろうか。ここまで言い切ったことは、旭東教会でもなかったし、これまでの自分自身の牧会経験の中でもなかったと思う。

 

けれども、この度はごく自然に、週報作りの際に「すっきり、さっぱり、発散いたしましょう」と記せたのだった。ここまで言い切ってしまうような教会は、もしかすると変わり種の教会かも知れないと思う。

 

教会には、いや、教会にこそ、このような場や時間、交わりが必要だというのが私の現在の到達点なのである。これは何も、よその教会でもして下さいね、というのではない。だが、少なくとも、旭東教会の教会形成や宣教のためには必要だろうと思っている。

 

私は役員会の時にも、或いは、教会の皆さんに折々に言っていることがある。それは、とにかく一度やってみましょう。初めてみましょう。やってみないと分からないし、ダメだったら、方向修正したり、微修正したり、やめればよいのだから。

 

要するに、どんどん変化しながら、手探りでやっていこうじゃないか、ということなのである。幸い、そのような仕方が、今の旭東教会では、自然になせるのが有難い。

 

どの分野の業種でも、昔のまま、何一つ変えずにやっております、なんていう会社やお店があるのかと言えば、なし、というのが答えではないか。

 

『大辞林』によれば「老舗」とは「代々同じ商売を続けている店。由緒正しい古い店」とある。

 

2021年1月31日、創立118周年を迎える旭東教会。真面目だけどほっとして、なぜか来るのが楽しみな教会であり続けたい。

 

この欄を書き始めたのは木曜の早朝である。皆さんどんな具合に「休もう屋」に集い、散って行くのだろう。(森)

 

※追伸 1月30日(土)予定通り、「ちょっと一息 休もう屋」を行った。多分、13名が集ったと思う。午後2時に始まり、3時10分に終了。日曜日にも差し支えない程度に、余力を残しての解散、という感じだった。

 

前回とは少しメンバーが入れ替わったけれど、それはそれでよし。そして、それが自然だろう。そして、おそらくこれ以上の参加者が居ると、会の空気は違うものに変わるかも知れない。

 

1月31日の創立118周年記念礼拝の説教は、考えてみると、この会を経て、自分自身の中で紡がれていった言葉だったのだな、と思う。説教題には含まれていなかった「いやしの共同体」「いやしの教会」ということが明確になり、いわば確信を抱いて語らせて頂いたものだった。

 

《礼拝音声メッセージBlog》でお聴き頂けます。どうぞ、聴いてみて下さい。これからの旭東教会の目指すべき道が、開けて見えているのを感じています。end 


2021年1月24日 礼拝堂献花
2021年1月24日 礼拝堂献花

2021年1月24日

【窓】

『 みんなの教会学校の出席者数は? 』

 

旭東教会が「みんなの教会学校」という言葉を正式に使い始めたのは去年の4月の総会以降のことだった(『週報』の式次第は4月5日からである)。

 

それまでは「ジュニアサークル」という呼び方で、教会内では「JC」という通称が広く使われていた。もちろん、行き当たりばったりで、「みんなの教会学校」にたどりついたわけではない。奉仕者と共に考え、役員会でも、「では、教会としてそうしましょう」ということになり、教会総会を経てということになったのだった。

 

そこに至る経緯を語る場ではないので、多くは記さないけれど、それでもひと言申し上げるなら、旭東教会の現在の文脈では、「よく考えてみると、もう、それしか無いでしょ」ということだったと思う。

 

教会に学校は必要ないという考え方もあることは当然承知しているし、1980年代以降の日本のキリスト教会内での、教会教育とか子どもと共にいかにあるべきか、という論議なども、踏まえた上の「みんなの教会学校」の始まりだったのである。

 

              **************

 

実は、私自身うっかりしていたなぁ、と最近気付いたことがある。週報の右下にある「教会学校」の出席者数統計のことである。

 

子どもが出席して居ようが居まいが「みんなの教会学校」を私たちは実践している。2020年4月以降、旭東教会の「教会学校」は「みんなの教会学校」として、年齢に関係ない時間の持ち方をしているのだから、礼拝出席者数=教会学校出席者数ということになるはずなのだ。

 

ところが私は、子どもの数だけを週報の出席統計のところに載せ続けてきてしまった。

 

〈シマッタ!ぼんやりしていた〉、と思ったわけである。

 

というか、考え方が古いままだったし、色々な転換というのは実に時間がかかるものだな、というのが実感である。

 

今回、実は、日本基督教団の本部にも電話で問い合わせを入れてみた。最初は、日本キリスト教団出版局の『教師の友』の窓口の人に電話もしようかなと考えたが、結果として、教育委員会や総務担当幹事であるとか、いわゆる本部の担当者に問い合わせたのだった。そして、教育委員会の方とはかなりの長電話をして話し込んだ。

 

結論を言えば、「礼拝出席者数=教会学校出席者数という数え方を旭東教会が報告されるのであれば、それで結構ですよ」と幹事の元で働いておられる方は明確に仰った。

 

そして、ここ数年、単独での教会学校を維持できなくなっている教会が多いからだろう。「森先生からのお問い合わせと同様の主旨のことは、時々、尋ねられています」と言われた。「過去の統計との継続性という課題はありますが、現状は、個々の教会の判断を尊重いたします。」ということなのだ。

 

              **************

 

絵本の日にせよ、小説教にせよ、礼拝堂に居る皆が生徒。子どもに伝わる話は大人の心にも深く届くはずである。キリスト教教育を通じての宣教・伝道の意味を、私たちはゆっくり・しっかり自覚し直したいと思う。

 

なぜなら、私がここで、統計表の数字を問題にするのは、旭東教会の統計的な数字が大きくなって自慢です、という話にしたいからではないのだ。

 

私たちは、礼拝に於ける教会学校の意義を、教師もさらに深く理解を深めて実践して行きたいと思う。そして、教会学校の時間が毎週の礼拝の中に組み込まれれば、当然、礼拝の時間は長くなるし、ある視点に立てば、この時間の意味は何なの?という気持ちになる場合もある。

 

よその教会との比較は必要ないのだ。私たちには、私たちの文脈と必然があり、内部でもその意義をしっかりと確認しながら、その意義についての共通理解を、じわりじわりと深めて行こうじゃないか、ということなのである。

 

教会学校の先生方が真面目にやろうとすればするほど、実は、礼拝の中のみんなの教会学校の時間は、奥深く、やり甲斐のあるチャレンジの時間であることがわかってきている。

 

先生方のご苦労いかばかりか、とも思う。なぜなら、四歳の子どもに伝えつつ、信仰の大ベテランも、求道者も居られる時間を任せられているのだからハードルは高い。

 

しかし、冷静に冷静に考えると、「みんなの教会学校」は大切な何かを産み出しつつあると思う。「キリスト教基礎講座」を9時過ぎから行っていた頃には経験できなかった多くのことを実践し始めている。

 

そして、年代を超えて学ぶことの楽しさをどこかで感じ始めている。絵本や紙芝居に年を重ねた方々も楽しく触れられる。証しだって、この時間にたくさん聴いてきた。

 

そうだ。こんな豊かな時間は、そう簡単には創り出せないのだ。

 

キリスト教教育を深めることは、実践神学の諸課題と真剣に取り組むことに他ならないし、礼拝とは何であるのか、教会とは何であるのか、という所に最終的には行きつくはずである。(森)

 

※ちなみに、『日本基督教団年鑑』には統計表の㌻があって、「教会(日曜)学校」の欄には、校数・教師数・在籍生徒数・生徒出席平均数という項が長年記され続けていて、全国の教会の一覧の数も見ることができる。

 

 


2021年1月17日の礼拝後 玄関に運ばれて来た 礼拝堂の献花
2021年1月17日の礼拝後 玄関に運ばれて来た 礼拝堂の献花

2021年1月17日

 【窓】

『 らくーに、ちゃらんぽらんに 』

 

兼務する十文字平和教会の1月定例役員会でのこと。

 

実は準備していた議事次第に無かったことで、最後の時間に私からお願いし了解を得たことがある。なにも思いつきで話し出したことではない。総合的に考えてそうした、というだけなのだが。

 

旭東教会と十文字平和教会の週報は全く別物で、十文字の方は週報の裏面に「先週の説教より」という1200字程のメッセージ欄がある。これは、旭東教会のみ言葉"余滴"とも違う内容なのである。旭東教会では、最初から説教要旨というようなものはナシとしている。

 

その代わりに、み言葉"余滴"を作成し、説教を補ったり、違う角度から学ぶことが出来るものをお配りしている次第だ。

 

**************

 

ご存じの方も教会では多くなってきたかも知れないが、何せ私の説教、元々のちゃんとした原稿があって無いようなスタイルなので、何を話したかも、時には、手元のICレコーダーの録音を聴き直さないとわからないことがあるのだった。

 

まとめる作業は、結果として勉強にもなるし、文章を書くことにおいて相当な鍛錬になってきた。が、ちょっとこれはいかんな、と思うことが最近続いていたのだ。

 

その日私は、役員会閉会の前に、「すみません。要旨をまとめるのに○時間半、見直してホームページに上げていると○時間以上かかり、体力と知力の限界。休止とさせて頂きたく・・・」とお願いしてみた。

 

長老の○○満さん(旭東教会では紙芝居で知られるが、県内では広く知られる画家)は「先生、最初(兼務者として就任前)に申し上げていた通り、らくーに、らくーになさって下さい」とのお言葉。

 

解散後には、お顔がアンパンマンのように優しい○○君江さんが「牧師先生がちゃらんぽらんでいて下さると、私らも安心ですからなぁ」と笑顔でお声掛けして下さった。かたじけないことである。

 

**************

 

ゆっくりと仕事量を減らすことは、私にとって、今とても必要なこと。新しいことを始めないように注意注意である。

 

ある尊敬する遠方の同労の牧師が、「私は今、ゆっくりと歩んでいます」とクリスマスカードに記されていたことが深く心にのこっている。(森)


2021年1月15日(金)さて、高い所で何をしているのかな?? 教会員の方ではありません。いつもお世話になっている工務店の腕利きの大工さんのお二人です。
2021年1月15日(金)さて、高い所で何をしているのかな?? 教会員の方ではありません。いつもお世話になっている工務店の腕利きの大工さんのお二人です。

2021年1月10日

 【窓】『役員会 ないしょ話?』

 

旭東教会では第二日曜の午後は役員会がある。今日がその日である。

 

1月の役員会で準備でもっとも力を入れたのは、2月21日の礼拝後に予定している、この時期恒例、「生き生き教会作りの会」をどんな時間にするのか。

 

その叩き台作りだった。2020年度を振り返りつつ新年度に向かう作業が始まるのだが、そこであらためて気付かされ、私が願うことがある。

 

先ず、「せっかくだから、前向きで、気持ちが上向きになる時間にしようじゃないか」ということである。

 

言い換えるならば、参加者が旭東教会に連なり信仰生活を送っていて、「幸せだ」「本当によかった」「恵みだなぁと思うこと」を互いに聴き、自分でも確かめ、今後それを深めて行きたいのである。

 

二つ目。私たちには、今、足りないこと、出来ていないことがあるに違いない。旭東教会が苦手としていること、牧師のわたしが不得手なことがあるに決まっているのだ。そこのところは、みんなで苦労があっても、一緒にやって行く道を見いだす切っ掛けを得ることである。

 

役員会の議事を立てるときにいつも心掛けているのだが、行事などを振り返るときに、私は「反省」という言い方をしないことにしている。せっかく、多くのことに満足したり、よかったじゃないか、と思っていても、「反省」という言葉がひと言あるだけで、悪いところのオンパレードになってしまうことがあるからだ。

 

最後に、牧師がしなくても良いことは役員さんや賜物のある方に任せることが出来ているだろうか。牧師でないと〈いかんこと〉を私が担っているだろうか、という所に行きつく。

 

任せて、人を育てること。これが一番ムツカシイかも知れない。実はこれ、牧師だけに当てはまるのではなく、その人しか出来ない事があまりに多いと、教会は生きてこない、「生き生きしてこない」ということなのだ。旭東教会の方でこれを読まれた方は1度思い巡らして見て下さいませ。(森)


こちらが文中の「メニューボード」です。カフェボードと言われることも多いようです ^^♪
こちらが文中の「メニューボード」です。カフェボードと言われることも多いようです ^^♪

2020年イヴの賛美礼拝のひとこま 十字架が浮かび上がる礼拝堂に今年なりました。
2020年イヴの賛美礼拝のひとこま 十字架が浮かび上がる礼拝堂に今年なりました。

【窓】『 S子さん召天 』

 

12月23日(水)の昼過ぎ、関東地方にある教会のH牧師より電話。『緑の牧場』を発送すると、近況が記されたお便りと献金をずっと送って下さっていた「S子さんが96歳11ヶ月で安らかに召されました」とのお知らせだった。葬儀は12月27日(日)に外部のホールで行われますとの一報。

 

その日は、S子さんの誕生日でもある。

 

S子さん。

 

ご主人の転勤で日本各地での暮らしを経て1974年(*昭和49年)~2008年(*平成20年)まで旭東教会の会員として歩まれた方。懐かしい方も居られるだろう。ご主人の葬儀は2005年に旭東教会で行われている。

 

随分前に、「私の納骨は森牧師の司式で岡山の主人の眠る墓地にお願いします」と S子さんからご依頼を受けていた。

 

いや、一度ならず、お便りを下さる度に記しておられた、というのが正しい。

 

H牧師が「S子さんの証しがそちらにありますか?」と仰ったので書類保管庫を探してみた。

 

2007年の『緑の牧場』に「受洗四十年感謝」の一文。他に手書きの「私のプロフィール」を見つけFAXでH牧師にお届けした。そこには趣味、特技、好きな聖句、すきな賛美歌等があってお人柄がしのばれた。

 

遠くの教会通しの交わりが与えられていることは、目に見えない貴いものだと感じる。お交わりに深謝。(森)

 

追伸 うちの教会員の皆さまの中で、何年も前にお渡ししている『エンディングノート』(旧『天国への 旅立ちの備え』)を未提出の方は、ご提出のご準備よろしくお願いします(^^♪ end

 

 


103歳のご婦人の告別式の献花 雅代さんありがとうございました
103歳のご婦人の告別式の献花 雅代さんありがとうございました

        2020年12月20日

 【窓】『日本一の火葬場』

                                        

12/14(月)、関西圏にある同じ日本基督教団の教会員で103歳のご婦人の家族葬に、旭東教会を会場に牧師として全般に仕えさせて頂いた。

 

前日が「友引」のため火葬場が休業だったためだろう。その日の岡山市内の火葬場は、どこも終日満杯だったようだ。旭東教会から35分程の所にある「備前斎場」に向かった。備前焼で知られる町の端っこにある火葬場だった。

 

じつはそこで、本当に頭がさがる仕事ぶりに出会った。

 

葬儀社との打ち合わせの際に、「森先生、備前の火葬場は40分でお骨拾いです」と伝えられていたのだが、本当にその言葉通りに火葬が終了したことに先ず驚いた。

 

日本の幾つもの火葬場に立ち会わせて頂いて来た私なのだが、普通火葬には一時間半、あるいは、二時間は必要だ。

 

「備前が日本一。イソライトの特許」と小声で言われたのは火葬場で長年お仕事をされているとおぼしき70歳位の男性だった。メモすることも出来なかったので、必死になって?「イソライト」の暗記に努めて、あとで、調べてみた驚いた。

 

確かに、イソライト工業株式会社は、並大抵ではない特許のための論文を提出して、その開発に力を尽くしていることがわかった。

 

先程ふれた、男性の姿を火葬場に到着直後に見つけた時、私にとって初めての火葬場だったので、到着直後に二、三質問をした際にも、「キリスト教なんだから自由なの。先生の仕方ですればいいのさ」と仰る。

 

火葬開始後35分位でその男性の姿が見え、火葬が終了したばかりの「火葬用台車」を押して来られてからも、「アッチッチだなぁ」と言いながら、その場の空気を本当に柔らかにして下さったのだった。

 

その男性は、お骨拾いでは、多くの火葬場で見かける過剰な説明や所作なども一切求めれなかった。天寿を全うされた方とは言え、ご家族を軽妙に導かれ、一同いつしか笑みがこぼれていた。「キリストは帰ってくるじゃろ」とのお言葉も口にされた。

 

敢えて呼ばせて頂きます。「おじさん、あなたこそ日本一。プロフェッショナル!です」と。(森)

 


文中の大掃除の時ではありませんが、それに近いのがこちら。2020年12月16日(水)の午後、集会室床張り工事後の椅子や机のフェルト貼りに集いました。こちらの男性3名は大掃除初体験の方たちでした(^^♪
文中の大掃除の時ではありませんが、それに近いのがこちら。2020年12月16日(水)の午後、集会室床張り工事後の椅子や机のフェルト貼りに集いました。こちらの男性3名は大掃除初体験の方たちでした(^^♪

            2020年12月13日 【窓】『麗しい時』

 

5月に礼拝堂の改装工事を行ったこともあり、先週は久し振りの大掃除となった。

 

だいたい夏前とクリスマス前に行うのが旭東教会の慣例なのだ。改装工事に伴い、これまでかなりの重労働の感が強かったワックス掛けはしなくてよくなった。水拭きでよし、の床材を選んだのだった。

 

私は小さなお手伝いしか出来なかったが、13時半過ぎに、兼務している十文字平和教会への移動のため、「あとは、よろしくお願いしまーす」と声掛けしていた頃ふと感じたことがあった。

 

心の中に、「きょうは何だか麗しいなぁ」という思いが湧いて来ていたのだった。そして実際、幾人かの方に、そんなことを話し掛けていた。

 

あらためて「麗しい」という語を幾つかの国語辞典でひいてみた。すると「心あたたまる状態」「はれやかである」という意味の他、古くは「美(うるわ)しいとも書いた」とある。

 

なる程、なる程である。

 

96歳の正さんが家から高圧洗浄のクリーナーをもってきてご自分で動き始めたり、窓拭きをせっせとされるご婦人の姿があったり、教会回りのゴミを拾って下さる方もおられたように思う。

 

大掃除が行われた翌月曜日の早朝、わたしは一人礼拝堂に立った。

 

すると、前日の午後、みんなで一緒に力を合わせたからだろう。床の色が何だか深まり、気のせいか、一皮むけた?ように感じた。水拭き用のモップ雑巾も3本購入し、力を込めて拭いて下さったこともあるだろう。

 

しかし、ふと思い巡らしてみれば、一年前の今頃の大掃除の時には、まだ、ご一緒していなかった方たちが幾人も(多分7名のはず)居られたことに気付き、私は合点がいったのだった。

 

何より、皆でたのしく自分たちの教会の大掃除をすることは、様々な意味合いがあると思う。愛着が出てくる。

 

後日談もある。初参加の方が、「あんなに楽しい大掃除は初めてでした」と言って居られた、とのこと。

 

感謝感謝であります。麗しきかな、我ら旭東教会。

 

それが実感である。(森)

 

 


2020年12月6日の献花より 待降節・アドヴェントの色 紫がきれいです(^^♪
2020年12月6日の献花より 待降節・アドヴェントの色 紫がきれいです(^^♪

      2020年12月6日

 【窓】『旭東教会っていいな』

 

待降節・アドヴェント入り目前の11月28日(土)の午後2時より、旭東教会ではこの時期恒例の〈クリスマスリース作り〉が行われた。

 

リーダーの光代さんの声掛けのもと、光代さんのお庭からの賜物のアイビーをクルクルと丸め、リボンをつけながら、楽しく過ごす方たちの作業が終わったのが3時過ぎ。少し遅れて来られた方も含めて、10名を超える方たちが参加しているように見えた。クリスマスリース作り、旭東教会の風物詩的ないい時間である。

 

私はリース作りには参加しないで、その後続けて行うことにしていた、新版「ちょっと一息 休もう屋」の席を、コロナ禍の事情も踏まえてあれこれ考えながら作り始めた。

 

旧版のちょっと一息 休もう屋は、専用ホームページのhttp://yasumouya-okayama.jimdosite.comでご覧頂くとよいと思う。そちらは無くなってしまったわけではなく、休止やむなしの状態となっている。

 

                **************

 

新装したちょっと一息 休もう屋は、、集会室の机を並び換え、大きめの円卓のように並べ替えて13名程が囲んだ。お茶を飲みながらであるが、コロナの感染予防の安全面は確保できていると思う。

 

参加された方は、それぞれに楽しかっただろうな、と会がおわってから思った。私は司会者としての切り盛りに徹することとし、日曜日に礼拝に集うだけでは、お互いに話すことも聞くことも出来ない話を、マイクを回して、数分以内で話して頂いた。当然、話す人は一人ずつだから、多くの方が聞く時間となる。

 

「心配でたまらないこと」「ちょっとばかり嬉しいこと」「腹の虫が治まらないこと」「ほっとしていること」「自己紹介ふうのこと」等など、始めてみると話題は尽きない。宗教的なこと、キリスト教的なことはなしで全く構わないのだ。

 

時間の使い方には長い短いはあるけれど(30秒以内の方もいたはず)、お互い程ほどに語り、ごく自然体で、ウンウンとうなずきながら聴き合った。

 

      **************

 

基本、意見を交わす場ではない。ほぼ言いっぱなしの時間だが、教会に来はじめて間もない方も居られるので、自ずと人柄が出てくる話は、様々な効用があるな、と思った。

 

皆の前で話せないことがあるのは当然にしても、それでも、聴いてもらいたいと願うことは、ちょっとしたことでも、実はそれなりにあるものなのだ。

 

何しろ今の時代、独り、で過ごしている方が多い。Twitterでも、Facebookでも作れない生の世界はやはり貴重なのだ。

 

大笑いする話題も少なくなかったし、この時間でなければ、語れなかった、聴けなかったことも多かったように思う。

 

翌日の礼拝を第一考え、疲れが出る前に短めに切り上げたのも平均年齢?歳の集いには程よかった。牧師にとっても土曜日に疲れるのはきついことである。

 

やはり、腹八分目か七分目。もう少し、と思う所で切り上げられるのがよいのだ。

 

      **************

 

考えてみると、この新版「ちょっと一息 休もう屋」は、「グリーフケアの集い」でも「み言葉カフェ」や「ほっとタイム」でもない、

オーバーに言うならば、旭東教会で、未だかつて流れたことのない時だったと感じる。

 

いやいや、旭東教会どころか、自慢するならば、たぶんこういう時間は、求められているのに、どこにもないと思う。

 

日曜日ももちろんそうでありたいが、「今日も教会に行ってよかった」と思われた方が必ずやおられたと想像している。次回の新版「ちょっと一息 休もう屋」は、12月26日(土) 午後2時~3時15分です。

 

積極的には宣伝しませんが、まずは教会に繋がっている方、そして、その周辺の方が新たに仲間入りされること歓迎です。ほんとに疲れない会、これからも期待できそうな時間なのであります。(森)

 

 


2020年11月29日の礼拝にて 赤色のベストを着て、還暦をアピールの森牧師 教会員のみどりさんの作です。感謝。
2020年11月29日の礼拝にて 赤色のベストを着て、還暦をアピールの森牧師 教会員のみどりさんの作です。感謝。

                2020年11月29日   【窓】

 『  還暦の私 たぶんいつも、

       一所懸命だった 』

 

お陰さまで、わたくし今日で還暦です。旭東教会、そして、兼務する十文字平和教会の牧師として、今を生かして頂いていることはひと言「幸せ」だ。

 

今は亡き恩師に、「一番よい時代は、先生、いつ頃でしたか?」と尋ねた際に、「60代になってからです」と即答されたことは忘れられない。その大先輩が、地方都市の中堅規模の教会で、かなり長期の牧会を終えて、静かな老後に入られたのかなぁ、と思っていたので、驚きをもって聴いたものだった。

 

私ごとながら、姉が40歳目前に、母が52歳で天国に行ったことを思えば、60歳を迎えていること自体、もったいないことと思う。本音である。

 

              **************

 

私は、自分が「大器晩成」の「大器」である必要は少しも思わないが、「晩成型」であれれば嬉しいな、と思う。

 

若い頃、一番頼りにしていた、私の母の姉、つまり伯母が「言ちゃん、男の人は、歳を取ってからよ」と言って闘病生活の頃になぜか預言してくれていたことも、忘れられない想い出であり、今も支えとなっている。

 

さて、1960年(昭和35年)11月29日生まれの私。

 

以下、10年ごとの振り返りをメモしてみようとふと思った。

 

5年ごとの振り返りでも、かなり色んなことが起こっていると思うが、ここでは敢えて、略してしまおうと思う。思い出すのも、少し大変でもあります。傷だらけですから。

 

              **************

 

▼0歳:東京の東村山で、誠太郎と和子の長男として産声。

 

▼10歳:大分県大分市・浜辺の村 大在に暮らす。将来はマラソン選手とボンヤリ思った。愛読書は『世界の名車』。

 

▼20歳:東京都府中市天神町の第2桂荘に暮らす。映画をよく観た。自分が何をしたいのか分からなかった。

 

▼30歳:東京都練馬区桜台に暮らす。学業を終えて、会社勤めを経て夜間の神学校に入学。神学が楽しく夢中。B型肝炎治療でほぼ毎日点滴も、なぜか将来に不安なし。

 

▼40歳:少しも恐いと思ったことはないが、目の前は墓場の福岡の教会で牧会。50歳~60歳位の方々が元気のある教会で揉まれていた。が、苦労もありながらも充実していた日々でもあったと思う。中古のフランス車・シトロエン エグザンティアに乗り始め、自分が車好きだったことを思い出す。故障が多く、いろいろ勉強になった。

 

▼50歳:福岡県筑紫野市のアパート暮らし。思いがけず精神科に通院・入院し成長できたかな?先が見えず闇を生きいたのも事実。

 

▼60歳:岡山市東区西大寺に暮らす。夕食後、ほぼ毎日眠い。69歳の方も60代、私も60代だと心に刻む。(もり)

 

 


2020年11月22日 献花
2020年11月22日 献花

      2020年11月22日

  【窓】『 うまく行かない時にこそ 』

 

この「タイトル」に見覚えがあるだろうか。先週(11月15日)、使徒言行録17章から、失敗したかに見えるパウロのアテネ伝道から示されたことを何とか少しでも語ることが出来れば、と願ってつけた「説教題」だ。

 

実はこの「説教題自体」が、私の語る「言葉」を超えて働いているかも知れない、と実感したことが起こった。何も「素晴らしい説教題です!」と誉められたわけではない。

 

だが、私の説教が不十分であったり、言葉足らずでも、悩みながら付けた「説教題から」3倍、5倍、10倍にも働きかける力が働いていたのかも知れない、という空気をふと感じたのだ。

 

いや、間違いない。

 

おそらくではあるけれど、この日の「説教題」をみただけで、〈最近、自分は少しもうまくいっていない〉という気持ちでお過ごしの聴き手が、先回りして?、今日の森牧師は、きっと自分のために語りかけてくれるのだと期待し、あるいは、やっぱり語ってくれた、と感じておられたと気付いたのだ。

 

確かめたわけでもないから、本当のこともわからない。

 

けれども、もはや、それは私にとってどちらでも構わないことだった。

 

自分は確かに、何かを受け取ったからだ。

 

その、自分自身の気付きに嬉しくなって気持ちが上向きになった私は、このホームページの【窓】欄、2020年9月27日号で『教会のショーウインドウ』として記した際にご紹介した、八木原牧師に再び電話を入れた。そこでも触れているが、八木原先生は、神学校の卒業論文で、「説教題の神学」を書き上げた方だ。

 

すると、八木原先生、「うんうん、あー、そうですか」としばらく静かに耳を傾けて下さったあとに、「自分も説教題でそのときの説教の内容を思い出すことがありますよ」と仰った。

 

さらに、喜びを抑えきれない私は、翌日、説教学の先生でもあり(勝手に恩師と慕っている)、やがて旭東教会にお迎えすることになっている関田寛雄先生に電話を入れたのだった。

 

「先生。かくかくしかじかで、こんなことに気付いたんです」と私が伝えると、関田先生、最初電話口に出られた時の声のトーンと明らかに変わってきて、ハッキリとしたお声でお話を始めて下さった。

 

関田先生も説教題について折々に考えておられるそうで、「傷(いた)んでいる人の心に届くものでありたいですねぇ」と言われる。

 

さらに嬉しいことに、過日お送りした手紙の中に、最新の旭東教会の教会報『緑の牧場』を入れておいたのだが、「望さんの洗礼」関連のメッセージを読んで下さっていて、「本当に感銘を受けましたよ。あなたの教会は本物の教会ですよ」と励まして下さったのだった。

※ホームページに「信徒の友」関連の部屋があり、そこで読めます。

 

私は、ヨハネ福音書のラザロとのからみで巻頭メッセージを記したが、関田先生は、マルコ福音書2章の、四人の人が中風の人を運んでくる物語を引用され、「信仰というのは、教会が生み出すものなんですよ」と言って、少し興奮気味に(ややオーバーですが)大いに喜んで下さった。

 

我々牧師は、気の利いた説教題を、いつもいつも付けられるはずもないし、無理があることは承知している。だがしかし、やはりそれでもなお、一所懸命に説教題も考えて紡ぎ出したいものだと思う。

 

福音の種蒔きは、このようなところからこそ、その一歩が始まる、と信じているのだから。(もり)

 

 

 


2020年11月15日の献花 やぁー、素晴らしいです。本当に幸せ。雅代さんのご奉仕に感謝!
2020年11月15日の献花 やぁー、素晴らしいです。本当に幸せ。雅代さんのご奉仕に感謝!

                    2020年11月15日

   【窓】『 靴ひも 結んでますか? 』

 

月曜日、岡山市内の病院の皮膚科に出掛けた。

 

数年来、豪雨の時以外は、ほぼ毎朝スロージョギングをしているのだが、おそらく、10ヶ月に一度くらいは靴の買い換えが必要になる。

 

靴底がすり減るとか、今までは感じたことがない足裏などの違和感が出てくるのだから、足と靴の相性も含めて微妙なものだな、と思う。

 

履き慣れたモデルの靴が気に入っていると、新しい型のシューズに挑戦するのも臆病になり、ついつい専門店の店頭まで履き慣れた靴を手にもって行き、同じモデルを求めることになる。

 

ところが、ジョギングシューズというのも、モデルチェンジが年毎に入って来てしまうものらしい。私は永遠の定番で少しも構わないのに、競争が激しいメーカーからすると、売り続けるための改良はほんの小さなことでも欠かせないことも最近知った。

 

これまで、「ミズノのウエーブエンペラーシリーズ」のあるシューズを確か三足だったと思うが使い続けて来た。それがとても調子がよかったのだが、今度は紆余曲折があって、ニューバランス社のシューズに変わった。

 

1月の箱根駅伝で区間新が続いたのは、新しいナイキのシューズが原因と言われている。それに少し似た感じの厚底モデルのシューズを購入したのだが、自分には全く合わずに、二週間程履いただけで悲しいかなゴミ箱行きとなった。

 

専門店で、「生まれて初めて足のサイズを実測で測ったりして(27.6㌢で幅広でなくても大丈夫と言われた)」念入りにサイズ違いの無いように確認した末にたどり着いたのは「ニューバランス社」の新しいジョギングシューズだった。

 

しかしである。これまたしっくりと来ない。靴ひもの感じもそうだし、足にまめが出来てしまう。

 

二週ほどで一度皮膚科へ出掛け、水を抜いてもらう処置をした。

 

まち針を焼き付けて消毒?すれば自分でも水抜きくらい出来るのかも知れないが、やはり、ばい菌が入るのが恐い。要するに、メスを入れてもらったのだった。あー治った、と思ったはずだった。

 

ところがである。それから二週程が過ぎると、なんと、またもや違和感である。

 

どう見ても?自分的には、再び足にまめが出来て水がたまっているように感じる。当然、痛みが伴い始める。硬化した皮膚と水がたまるような柔らかい皮膚の部分の折り合いが悪いらしく圧迫があるようだ。

 

仕方なく、牧師の休日の月曜日、再び病院に向かったのだった。前回と同様に小さくメスを入れてもらいたかった。それで治ったような気がしたからである。

 

しかしである。二人居る皮膚科のお医者さんのうちのお一人は、足をしばらく見てから、「これは摩擦で腫れがあるだけですね。靴を履くごとに靴ひもをちゃんと結んでますか。足のこういうトラブルを防ぐのは、面倒くさがらずに、毎回靴ひもを解いては締めるしかないんですよ」と冷静に言われた。

 

少し食らいついて、硬化した部分の削りはなんとかして頂いたものの、うーん、実のところ、毎回靴ひもを解くとか結ぶということはこの何年来していない。わが家にある全ての靴もそうだ。

 

それにしても痛いところを?つかれてしまった。ドクターのお察しの通りなのである。基本を疎かにしているのは明らかで、専門医の目から見ると直ぐにお見通しということらしい。

 

30秒か一分かの手間を惜しんだ結果、痛い目にあうということだ。

 

その後、すこし悔しいけれど、指示通りにしてみると確かに感じが変わって来た。

 

                **************

 

それにしてもである。

 

足先だけではないけれど、人間というのは、小さな傷や棘がささっただけで、本当にたまらない痛みを感じる。

 

今回、右足の中指のトラブルだったが、その痛みを感じないようにと思って無意識のうちに走り続けると、今度は、左足のひざが痛み始めた。かばって走っているのだった。

 

人間とは実に繊細なもの、と思う。

 

今回のだらだらとした出来事。

 

聖書の話に関係なしだろうか。あるいは、伝道・牧会と無縁な話だろうか。

 

第一コリント書の12章のキリストの体のみ言葉に「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」とある。

 

今、ここでを一所懸命に生きる者としては、いやいや、そうじゃないよな。靴の問題だけではないよな、というのがひとつの結論なのであります。(もり)

 

 


2020年11月1日(日)午後 旭東教会墓苑で 本文中の聖書とプログラムが森牧師の手にあります。これが、なぜか、するりと・・・
2020年11月1日(日)午後 旭東教会墓苑で 本文中の聖書とプログラムが森牧師の手にあります。これが、なぜか、するりと・・・

                   2020年11月8日

          【窓】『真夜中の教会墓地へ』

 

あれ、愛用の小型の詩編付き新約聖書(新共同訳 NI 344です)がない、と気付いたのは、11月1日の午後三時半前、兼務する十文字平教会の聖徒の日・召天者記念礼拝開始直前のこと。

 

手になじみ、書き込みや線引きも多く、触れているだけで、不思議と説教が出来そうな気がする大事な聖書なのだ。

 

どこに?おかしいなぁ?と思いながらも、もちろん探すいとまもないままだった。

 

十文字平和教会の礼拝でも、その聖書の他に、普通に旧・新約聖書は手にしていたので、困ることもなく当座の礼拝は無事に終わった。

 

その後、牧師館に戻って、冷静になっても見当たらなかったのだが、そのうち出てくるだろうと思い込むことにした。

 

だが、ありゃ、もしやと思い始めたのは月曜日の夜、だいぶ遅くなってからだった。月曜日の夜は、だいたい、十文字平和教会での説教要旨をまとめることにしている。その準備の為にと、小型の新約聖書詩編付きをどこを捜してもみつからない。

 

あー、そういうことか、と思い車に飛び乗った。向かったのは、旭東教会の墓地(西大寺近郊の最大の霊園の一角であり、火葬場も隣りにあり、旭東教会墓苑の中)だった。旭東教会の聖徒の日・召天者記念礼拝のあと、墓前の祈り・納骨式で、ぽんととどこかに置いたか?と思ったのだった。

 

時刻は既に深夜の12時に近い頃である。

 

人の気配のないことは当然予想していたが、電池式のランタン型の灯なしには足もとは何も見えない。

 

まさに肝試し状態でホントちびりそうになる。

 

もしも、遠くから墓苑を見ている人(居ないに決まっているが)がいたら、その方が恐かったかも知れない。火の玉がゆらゆらしている、と見えてもおかしくない。

 

車を降りて、急な坂を登り、墓地へと急いだ。

 

すると・・・

 

あった。式次第と共にポトリと落ちているではないか。納骨式を一段したの納骨堂で行うときに急いでいて落としたらしい。自分が最後にそこを離れ事も不運だった。

 

さらに運悪く、前夜は久し振りにかなりの雨。

 

愛用の聖書はずぶ濡れ状態だった。あとで乾燥作業を始めた時にわかったのだが、既に、ちいさな虫たちが聖書のなかに居場所を作り始めていた。彼らは一度冷凍庫の中で急速冷凍されてしまって、お亡くなりになった、ということになる。

 

Webで検索してみた。

 

こういう場合の本の再生方法を探してみると、冷凍⇒解凍・除湿機(*重しを置いて)使用を試みて、とあった。

 

さっそく冷凍専用の袋に詰め込んで聖書を凍らせて丸一日を経て、脱衣所で除湿機を動かし始めた。

 

淡い期待を抱いて。

 

だが、どうやら復活は無理と悟らざるを得ない。特に、ボールペンの種類によるのかも知れないが、赤線が滲むなどしていて諦めざるをえなかった。背表紙もぼろぼろだ。

 

1994年頃から手元にあった相棒とも言える聖書だけに、私は「残念な人」になってしまった。

 

とは言え、隠退目標の20年先=80歳迄は絶対にもたなかったのだから、と自分に言いきかせた。

 

そして、キリスト教専門書店のCLC岡山店に電話を入れ、同じサイズの聖書の在庫を確かめて出掛けることにした。

 

ただし、昔は厚紙のハードカバーだったのに、今ではビニールのものになっていて何とも落ち着かない。

 

重ね重ね残念だ。

 

しかしながら、もう、どうにもならないことだ

 

気持ちを切り替えて、手元に来た小型の新約聖書と共に、新しい旅を始めたいと思う。

 

でも、ぶつぶつぶつ。(もり)

 

※紙のハードカバーの時代の 『新約聖書 詩編付き NI 344』(新共同訳)を古本屋さんなどで見つけられたかた、教えて下さいませ。すみません。

 


2020年の旭東教会 聖徒の日・召天者記念礼拝の講壇です。
2020年の旭東教会 聖徒の日・召天者記念礼拝の講壇です。

                    2020年11月1日

  【窓】『言葉にしないと苦しい』

 

質問です。

 

現在の旭東教会で教会外の方たちが、定期的に一番たくさんお出でになる時間はいつでしょう?

 

答えは二ヵ月に一度の「グリーフケアの集い」の時間である。

 

まぁ、たくさんと言っても数名なのだが、礼拝への新来会者を迎えるのは中々難しいものだ。

 

グリーフケアの集いにお出でになる方の人生の文脈は多様だ。

 

40代50代という比較的お若くして、お連れ合いに限らず、大切な方との死別をした後の生きる目的や希望をを失ったかに近い方々の気持ちの持って行き場の喪失にも出会う。そして切なくなる。

 

集いでは、SNS(social networking service)の世界でのネット上の交流も有難いものだが、遠慮があったり、書き込むという作業の限界があることも教えてくださった。

 

先日のグリーフケアの集いでは、「自力では無理です」「ここのような、安心して毒を吐ける場所が必要」という言葉に立ち止まらされた。

 

これは、私が時々口にしている、「お祈りというのは、神さまの前で、いいことばかりを口にするものではないですよ。ぼやきも、不満も、苛立ちも神さまにぶつければいい」に通じているように思った。

 

そう。

 

思うだけでなく、言葉にすること。それは、私たちにどうしても必要な人として大切な作業となる。そして、祈ることも、確かなグリーフワークなのだ。(もり)

 

 


礼拝堂改修工事 実はまだ終わってません いろいろ修正があります そのひとこま 10月24日(土)の昼前頃の講壇 塗装職人さんの仕事
礼拝堂改修工事 実はまだ終わってません いろいろ修正があります そのひとこま 10月24日(土)の昼前頃の講壇 塗装職人さんの仕事

                    2020年10月25日

                  【窓】『 泣きました 』

 

三日間の夏休み後半を過ごした。牧師館に居るとつい仕事を始めてしまう。これはいかん、ということで外に出ようと決めて、二日連続でお隣の福山市へ映画を観に出掛けた。

 

一日目は、『望み』という映画で、堤真一と石田ゆり子主演で、監督:堤幸彦の作品。決してわるくはないけれど、何かが響いてくることが少しもなかった。

 

さあ、二日目はどうしよう、と思っていたところ、『ミッドナイトスワン』という映画があることを発見。作品は秀逸だった。今も余韻が残る。

 

主演は元SMAP(スマップ)の草彅剛(くさなぎ つよし)さん演じるいわゆる〈オネエ〉。男性として生まれたけれど、幼い頃から自らの性に違和感を覚え、女性として新宿のショークラブで働く。

 

やがて始まる、親からの虐待を逃れて転がり込んで来た中三の親戚の少女との寄り添いの日々は、哀しみと痛み、そして破れだらけだった。

 

だがしかし、なぜか、二人が生きるその世界は孤独なのに真実で美しく、そして儚(はかな)い。都心のビルの谷間で、夜中に少女がバレエを教える場面に息が止まった。

 

三日目、原作本があると知り、岡山市内の大きな書店の映画コーナーに立った。原作(監督さんが書き下ろしたもの)性転換手術の失敗で人生を終える彼女。映画には無かったが、聖書の支えなしには生きていけない最期の日々だった、とあった。映像にも、最期の日々を過ごす部屋の中に十字架があったようにみえた。

 

ちなみに、体力気力があったら、夏休みの三日目は、フランス映画で、自閉症ケア施設を守った“最強のふたり”描く実話『スペシャルズ!』を岡山市内の名画座・シネマクレールでと思ったのだが、もう若くありませんでした。しかし、見そこなったのは残念。(もり)

 

 


10月18日の教会玄関 平らにおいて使う備前を、雅代さん、立てて献花。驚きと感動でした。教会員の備前焼作家・川井明美さんの作です。
10月18日の教会玄関 平らにおいて使う備前を、雅代さん、立てて献花。驚きと感動でした。教会員の備前焼作家・川井明美さんの作です。

               2020年10月18日

             【窓】

『 六年間学んだ 小学校の校歌 』

 

私の頭と心の中では、還暦が近くなって来たことと結び付くことなのだが、最近、小学校の頃のことを思い出すことがある。

 

60歳で一度目の定年退職を迎えるであろう多くの同級生たちが、たぶん、人生の転機に差しかかり始めているからかも知れない。

 

だからかどうかわからないが、なぜか私は、校歌が歌いたくなるのだった。ハッキリと覚えているのは一番だけだなのだが、散歩の時など、辺りを見まわして、人気が無いところだと、歌い出すことがある。

 

すると、あーら不思議。50年前の小学生時代の田舎の景色が目の前にかなり鮮明に広がりだす。

 

私の母校は大分市立大在小学校という。

 

ホームページを見ると、お色直ししながら維持されてきた校舎が目に入る。かなり年季が入ってきているのでは、と想像する。

 

現在の校長先生のホームページ上でのご挨拶文を読んだ。大在という所が、どんなところかわかりやすい。実は、この半世紀の間に大袈裟ではなく、大きな変化を遂げた地であることが簡潔にまとめられているのだ。

 

以下、*印のところ、大在小学校のホームページからのコピペです。

 

              **************

 

 大分市の東部に位置する本校は、新産都計画に基づく臨海工業地域に接し、国道197号線沿いに住宅地が拡大している人口28,676人(平成31年3月現在)の大在地区にあります。地理的には、大野川(おおのがわ)と丹生川(にゅうがわ)に挟まれ、別府湾に臨んでいます。

 

 かって「半農半漁」の村であった大在地区は、1973年に始まった大在土地区画整理事業を契機に大きく様変わりし、1998年までに西日本最大の規模と言われた468万平方メートルが整備されました。人口増加も著しく児童数も1546名を数え、日本一児童数の多い学校となり、2005年(平成17年)、現大在西小学校と分離しました。2020年度は、新一年生177名を迎え、全校児童1027名でスタートしました。

 

              **************

 

 1年生177人とはすごいではないか。いや、全校児童数もすごい。

 

 そして、あー、わが森家は、新産業都市区画整理事業のための引っ越し第一号だったのも思い出すのだった。

 

 それでである。

 

 9月初めに、母校のホームページをじいっと眺めていたところ、残念ながらわたしの魂の奥底に宿る「母校の校歌の歌詞」すら載っていないではないか。いろいろあって上京し、卒業した東京都内の男子私立高校のホームページでは、学生たちの合唱も聞こえて来るサービス振りなのに・・・。

 

 そこで、思いたったら吉日の私。電話してお願いしてみることにした。電話口に出られたのは、爽やかな印象の教頭先生だった。

 

 「1972年・昭和47年に卒業した森 言一郎と申します。岡山市に暮らしていますが、愛する大在小を今も懐かしく思い出します。校歌を最後まで歌いたいのですがホームページに載せて頂けないでしょうか。他の卒業生も喜ぶのでは・・・・・・。」と話してみた。

 

 すると、女性の教頭先生、「大在小を愛してくださっている卒業生の方々がたくさん居られるんですよ。わかりました・・・」と即座に応えて下さった。

 

 先日、久し振りにホームページをのぞいてみた。すると、たぶん私が電話した頃だろうと思う。9月15日付で校歌が掲載されたという新着案内が目に留まった。そして、歌詞が三番までちゃんと読めるようになった。

 

 いやぁ、実にかたじけない。

 

 すみません。ただそれだけの話なのです。

 

 が、皆さんは、いかがですか?小学校の校歌、ご記憶ではないでしょうか。

 

 校歌自慢の時間、いつか、やってみたいものだ。旭東教会がある西大寺の小学校の校歌、確か、現在の小学生の少年と、昨年95歳で召されていった喜久恵さんが、5年程前のピクニックで同じように歌ったような気がするのだ。校歌とは実に不思議な存在だと思う。

 

 現在、学校で教鞭をとって下さっている先生方よりも、卒業生の方が、はるかに深く大きな愛着をもつものなのだから。幼い頃の感性が、歌いこんだ校歌を忘れるはずがない。

 

 実は、私たちが賛美している賛美歌が、6世紀のものだったり、中世の時代とか、ルターの作詞だったすることに、どこかで重なっていることのように思うのは、気のせいではないと思う。(もり)

 

 


2020年10月11日のみんなの教会学校の時間 『たいせつなきみ』の一場面 パンチネロという木彫りの人形が造り主のエリのところに戻って来たところ。パンチネロの鎧もとれてます、多分。
2020年10月11日のみんなの教会学校の時間 『たいせつなきみ』の一場面 パンチネロという木彫りの人形が造り主のエリのところに戻って来たところ。パンチネロの鎧もとれてます、多分。

                 2020年10月11日

   【窓】『 魔法のかかる教会 』

 

先週の礼拝後(10/4のことです)、牧師になってというより、クリスチャンになってから初めて耳にした言葉がある。

 

声の主(ぬし)は季久子さん。「せんせい、あのなぁ、ここに来るとなぁ〈魔法〉がかかったみたいになるんよー」と言われた。

 

「魔法がかかる・・・」

 

皆さんがほっとタイムでお茶を楽しみ、その後、ぱらぱらとお帰りになった頃を見計らい、無人の礼拝堂。季久子さん、ご主人の三朗さんが、コロナ対策のために長椅子を消毒しながら拭き上げて下さっているのを見守っておられる時のことだった。

 

私にももちろん「魔法がかかる・・・」という言葉の意味は、何となくはわかったような気がした。でも、はっきりしないところもあるなぁ、と思っていた。

 

そこに、かつて、市内の中学校の保健室でカウンセラーをされていた光代さんが同じように礼拝堂の消毒の奉仕のために通りかかったので声掛けした。ぜひとも、「魔法がかかる」という言葉を分かち合いたいと思ったのだった。

 

「あのねぇ、光代さん。季久ちゃん、ここに来ると魔法がかかったみたいになるんですって・・・」

 

すると光代さん。

 

「あー、それはねぇ、旭東教会は季久ちゃんが目に見えない鎧(よろい)を外して過ごすことが出来る場所だからよー」と解き明かして下さった。

 

心からアーメンである。

 

「教会で魔法がかかる」ということ。

 

実はこれ、イエス・キリストの教会というところの本質的なことを言い当てている言葉ではないだろうか。神さまの前に進み出ている自分が、重荷を降ろし、よそ行きではなく、そのまんまの自分であれるかどうかは、本当に教会生活の鍵なのだから。

 

大切で真実な言葉に感謝です。いろいろと考えるきっかけとなりました。(もり)

 

 


      2020年10月4日

 【窓】『 猫から学ぶ信仰生活 』

 

旭東教会には世に言う愛猫家(あいびょうか)が確実に何名か居られることを承知している。

 

数ヶ月前、ペット葬儀のことを役員会で相談した際、「賛成です。わが家もそのペット火葬会社にお世話になり、とても良かったです・・・・・・」と言われた声も忘れられない場面だ。

 

2020年キリスト教書店大賞第2位の『にゃんこバイブル』(*副題 ―猫から学ぶ聖書(バイブル)のことば―)を読まれた光代さんが「先生、読んで見ますか。やがて相談もあるでしょう〈ペット葬儀〉の参考になるかも」と貸して下さった。有難い。

 

※ちなみに、大賞はヘンリ・ナウェンの『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局 2640円)。以前は、別の出版社から別の翻訳者で出ていたはず。ナウェンの本ならば『放蕩息子の帰郷―父の家に立ち返る物語―』(あめんどう 2000円)が本当に素晴らしいです。

 

**************

 

『にゃんこバイブル』の著者は青山学院大学の宗教主事塩谷直也牧師だ。塩谷先生は、これまで、私自身が多くを教えられる本を書いて来られた方。

 

塩谷先生のご本に、難しい本は一冊もない。

 

キリスト教の世界では硬派な月刊誌『福音と世界』に3年にわたって連載され、やがて単行本となった『迷っているけど 着くはずだ』(新教出版社刊・2000年)が手元にあるが、赤鉛筆・青鉛筆による線引きだらけ。

 

10年ほど前、幼稚園教諭の夏期講習にお迎えする立場だった時に、塩谷先生にサインをして頂いたのだが、そこには、「愛は決して滅びない」というみ言葉と共に、猫の絵(どうやら「モモ」という子らしい)が名前と共に描き込まれている。

 

筋金入りの猫好きの先生なのだな、と思う。

 

10年前の夏の別れ際、地域に根差した教会の牧師から青山学院に転身されて間もない頃で、「なぜ、教会を離れて・・・」とおききしたことも忘れられない。

 

**************

 

猫大好き人間でもあられる。塩谷先生。

 

ルカによる福音書15章の〈放蕩息子〉を〈猫〉に譬えこう語られる。

 

《「家」に帰ろう》の項ではこう記しておられる。以下、15㌻より引用。

 

聖書に登場する父親も、家出した息子が忘れられなかったでしょう。彼も毎夜、闇に向かって息子の名前を呼び、一日も屋はい帰宅を待っていた気がします。

 

**************

 

《「資格」は要らない》の項でこのように記されている。以下、19㌻より引用。

 

息子は父に語ります。「もう息子と呼ばれる資格はありません」と。「家に帰る資格も値打ちもない」と自覚しているのであれば、普通なら、家に足が向くはずはありません。しかし、彼は家が本来どんな場所かよく知っていました。そこは「資格」がなくても帰れる場所。いや「資格」がないことが「資格」となる場所なのです。

 

引用終わり。

 

**************

 

『にゃんこバイブル』。

 

軽いのに深く、そして、面白く、読みやすい。それだけでも教えられる。

 

旭東教会の教会図書として発注済です。(もり)

 

 


2020年9月27日 双子ちゃん来会の朝 創世記1章の天地創造の絵本を朗読 大人はスクリーンを観てます
2020年9月27日 双子ちゃん来会の朝 創世記1章の天地創造の絵本を朗読 大人はスクリーンを観てます

                      2020年9月27日

【窓】『教会のショーウインドウ』

                              

先週の説教題は『信仰はぴょんである』だった。

 

礼拝後には〈み言葉カフェ〉を行った。み言葉カフェは、月に一度、日曜日、そして、礼拝の恵みを分かち合う時間を30分限定でもつ会。礼拝に限らず、賛美歌がよかった、教会に来て誰かの顔を見てほっとした、そして、説教ではこんなことを感じた・思ったということを、牧師の司会で傾聴し合う時間だ。

 

毎回始めに伝えるのは、黙って座っていて他の人の声を聴いているだけでもいいですよ、ということ。そして、これがもっとも重要なのだが、参加者のとなたが語ることでも、それをきっかけとして「それは違うでしょ」というような応答はしない。ただ、聴きっぱなしの会であるということだ。

 

絵画を鑑賞して心に触れることは、誰しもが違うもの。それと同じなのが、日曜日の礼拝の恵みである。

 

実は、9月20日の会は前代未聞(笑)のことが起こった。もちろん、それはとても大袈裟に言っているのだが、確か4名の方が「礼拝の説教題の予告を見て楽しみにして来ました」という趣旨のことを言われたのだった。正確には、説教の中身にもふれる形で、もう一方、『信仰はぴょんである』に関連してお話されたと思う。

 

数日後、福島県の会津高田教会の八木原敬一牧師に電話を入れた。神学校の庭で見かけるころから印象に残る八木原敬一牧師は、いつも優しい笑顔をたたえている方である。

 

この方、年齢はたぶん10歳近く上の方だが、母校・日本聖書神学校の2年後輩で、神学校の会報で目に留まって覚えていたのだが、卒論は『説教題の神学』だった。

 

八木原先生は、渥美清さんの寅さんシリーズにお客さんを一人でも増やすために活躍されたある映画製作会社の宣伝部プロデューサーの経歴を持つ。

 

渥美清さんが演じた、あの超連作は山田洋次監督率いる「山田組」として知られるが、その山田組の一員(おそらく、映画の世界では憧れのではと思う)としてスタッフルームを普通に出入りされていた方なのである。

 

久しぶりの挨拶を交わした後、実は、かくかくしかじかで、先生の卒業論文のタイトルを覚えていて、こんなことがあって電話しました、とお伝えした。

 

すると、八木原先生は「説教題は牧師が礼拝で楽しむことが出来る唯一の箇所ですね」「要するに〈神の国〉はどういう所か、ひと目で分かる目を引くものをショーウインドウに掲げるものですよねぇ」と言われた。

 

映画外車の宣伝部では、新入社員は100本のキャッチコピーの提出が恒例行事であり、さらに、一日一本の作成が、宣伝部員の毎日の仕事なんです、と裏話?も教えて下さった。なるほど、それがプロフェッショナルの世界だと思う。

 

そしてまた、来年1月に旭東教会がお迎えする説教学の先生でもある関田寛雄先生が、(おそらく、卒論の審査をされたのだと思うが)大いに喜んでおられたことも教えてくれた。何しろ、関田寛雄先生、寅さんの大大大ファンであり通である。信徒の友でも、20年位前か、山田洋次監督と関田寛雄先生、対談されている。

 

私が八木原先生に「最近、ご自分でこれはという説教題がありましたか?」と尋ねると「それがないんですよー」とおっしゃた。

 

我々も楽しみながらの伝道を心がけて行きたい思う。以前から、考えなしで説教題をつけることをもちろん私はしない。ある友人や大先輩は、新共同訳聖書の小見出しとか、牧会手帳にある、日本基督教団の日課のタイトルが説教という方が居られるのも実情なのである。

 

いや実のところ、これは、それ程、説教題はつけるのが難しいということの裏返しなのだ。正直にというか、私の説教を聴いていて下さったら分かるが、説教題の通りに結論を導き出すことなど不可能なのだ。こと、わたしの場合は、土曜日から日曜日に変わろうとすることに、「あー、わかった」「降った」を実感することがしばしばなのだから、説教題の予告をすることは、無理難題なのである。

 

多くの説教者、伝道者によき感化を与え続け、今でも、その名が知られる、竹森満佐一牧師(吉祥寺教会牧師・東京神学大学教授)の説教集を見るとわかるが、説教題はなしである。説教題などつけるものではない、というスタンスを貫いた方なのだ。

 

それならば、なぜ私たちは、説教題を掲げているのだろうか。それは、伝道の為しかないと思う。敢えて言うならば、教会員のためにというより、正に、通りすがりの方が、年に一度でも、それを目にして、教会へと考えて下さったらこれ以上、嬉しいことはない。

 

かつて牧会していた、新潟県上越市の高田教会は、バス停の真ん前に教会がある。当然バスが停まる。そして、バスの中から大きな看板に記された次週の説教題が目に入った。その大きさ、旭東教会の比ではない。

 

今想いここしてみるならば、幾人もの方が、その看板を目にして、教会を訪ねて下さったものだった。

 

野球選手は打率3割で一流であるからすると、私は、説教題を付ける度に振っているバットは、ヒットになるのは、一割でもよしと思っていたい。『信仰はぴょんである』は私からすると、場外ホームランなみの説教題だったようだ。

 

大切に背負っていきたいと、今、改めて思っている。(もり)


2020年9月20日の説教は『信仰はぴょんである』でしたが、それに応答してのカードが届きました。
2020年9月20日の説教は『信仰はぴょんである』でしたが、それに応答してのカードが届きました。

2020年9月20日

 【窓】『映画っていいな』

 

遅めの夏休みの一日。久しぶりに映画を見たいと思った。

 

ところが、これはという映画が岡山市内に見つからず、山陽道にのって高速で広島県福山市に向かうことにした。

 

気が付いてみると久しぶりの高速道の運転だと気付く。福山市内のシネコンプレックスまで二時間もかからない距離で景色も変わり運転も楽しい。最高速度も100キロの区間が長いので安心してアクセルを踏める。

 

高速を降りて15分程で着く「エーガル8 シネマズ」は、岡山に来て最初の夏休みに礼拝出席した神辺(かんなべ)教会方面にあった。独立系の映画館らしく、明らかに岡山市内のシネコンとは異なるラインナップも私的にはとても好ましい。

 

観たのは邦画・『宇宙でいちばんあかるい屋根』だった。主演の一人は、謎の老婆を演じる〈桃井かおりさん〉。彼女のゆるーい口調からして自ずとテンポが遅くなるのだが、それが様々な〈間〉を生みだして心地よく、今の私にもその〈間〉が必要な事だと気付く。

 

眠気も来ない珍しい映画というと分かりやすいだろうか。リラックスと同時にいつしか涙腺が緩むような、深いなぁと思う映画だった。字幕のある映画だったら集中力も足りず疲れ果てたかも知れない。

 

程ほどの入りだった館内は、コロナの事情で、席は一つ置きにしか座れないようになっていた。だが、これもまた、かえってゆとりに感じられて助かった。

 

映画館を出るとき、改札?のところにたって居られた支配人のようにもお見受けした方に、「岡山で観たい映画が見つからず、こちらに来ました。選ばれている映画のかけかたが素晴らしいですね」と伝えると、「そう言って頂くことが、一番嬉しいです」との声が笑顔と共に聞こえた。(もり)

 

 


2020年9月13日 恵老祝福礼拝後、Wさんご夫妻が恒例の記念撮影をしているときのひとこま まるで有名写真館の方のよう
2020年9月13日 恵老祝福礼拝後、Wさんご夫妻が恒例の記念撮影をしているときのひとこま まるで有名写真館の方のよう

2020年9月13日

【窓】

『 キリスト教専門書店 CLC岡山店   12月5日(土)

閉店のお知らせへの 応答 』

 

CLC岡山店 店長さま

 

こんにちは いつも、貴いキリスト教文書伝道のお働きに感謝しています。今日、「わぁ厳しいのだなぁ」という教会へのお便りが届きました。12月5日(土)に閉店とのこと。

 

微力ながら、キリスト教書や関連のものはCLCさんで、と呼びかけていた者として、さみしいのひと言です。祈祷会でも文書伝道のお働き、時にですが、お祈りさせて頂いておりました。

 

この度の決断や決定に至るまでのご苦労いかばかりか想像できないことが多いですが、今後の道を模索中とのこと。旭東教会の空き部屋(狭いです)が提供できないか、等と考える位にさみしいです。

 

CLCさんの存在は、岡山にあって、これまで多くの方のオアシスとなって来たことを思います。

 

私もちょっと立ち寄ると、『本のひろば』や『信徒の友』などの雑誌等では紹介されることのない本との出会い、或いはその空間、時間を有り難く思い続けていた者でしたので本当に残念です。

 

〈一粒社〉さんや〈インマヌエル綜合伝道団出版局〉の書籍とか、自費出版の思いがけない本、委託販売の小物等々、お店でなければ手にすることが出来ないものに、もう会えなくなることもかなりショックでもあります。とても楽しみにしていました。

 

教会の信徒の方々も、わたしの視点とは違う所から、CLCさんを頼りにしていたと思います。クリスマス前には教会学校教師会のメンバーなど必ず立ち寄らせて頂いて、教会学校クリスマス会のプレゼントを探しに出掛けるのが恒例だったはずです。

 

近いところでは、二ヵ月ほど前、「主の祈り」に関する小説教をみんなの教会学校(旭東教会では主日礼拝に組み込んでいます)で担当された信徒の方が、「あれこれ、CLCさんが一緒になっておすすめ本を探してくれたんです」と嬉々として報告してくれておりました。

 

冷静に考えると当たり前かも知れないですが、私が考える本よりも、CLCさんの方が良い本を薦めて下さっていました。はい。

 

何とか、お働きの形を変えてでも、岡山で継続されること、祈ってやみません。それにしても、長年のお働き、本当にお疲れさまでした。ありがとうございます。閉店の日までもお忙しいことと思います。お祈りしています。(もり)

 

 


2020年9月6日届いた、教会員で、女流備前焼陶芸家・川井明美さんの新作の花器 次週は、ここにお花が生けられるはずです。
2020年9月6日届いた、教会員で、女流備前焼陶芸家・川井明美さんの新作の花器 次週は、ここにお花が生けられるはずです。

                     2020年9月6日

      【窓】『 内海桂子さんの言葉 』

 

女性漫才の草分け「内海桂子・好江」で活躍された〈内海桂子さん〉が97歳で亡くなられた。

 

人気漫才コンビ「ナイツ」の師匠だったことを知ったが、ナイツでボケを担当し、俳優としても売れっ子の〈塙 宣之(はなわ のぶゆき)さん〉は、師事した桂子師匠から「言葉で絵を描きなさいと教えられた」「誰よりも漫才を愛された方」とのコメントを出した。

 

毎週説教を続けている者として「言葉で絵を描く」ことは他人事(ひとごと)ではない。異なるイメージを説教に関連して思い浮かべたことはあったが、深いな、と思った。

 

そしてまた、「誰よりも漫才を愛された方」も、「神を愛し、人を愛し、土地を愛する」ことに通ずる何かがある。

 

講壇で発する言葉から、皆さんが色を感じ、匂いがして来て、お腹が空くような説教も一つの目標かも知れない。

 

同時に、皆さんがお宅に帰られてから、もう一度聖書を開きたいな、と思って下さることになれば万々歳である。たとえそれが、一人だけであっても、心底しあわせなことだと思っている。(もり)

 

 


2020年8月30日・教会共育献金で購入した図書を、礼拝の最初の報告で紹介する森牧師
2020年8月30日・教会共育献金で購入した図書を、礼拝の最初の報告で紹介する森牧師

     2020年8月30日

       【窓】

 『 遅ればせながら 2020年を実感』

 

 私が伝道者となるために学んだ神学校の卒業生(*東京・新宿区目白にある「日本聖書神学校」)研修会が8月25日(火)に行われた。

 

 今年の2月以来のコロナ禍の事情により、開催予定地での北九州・小倉での会は来年度に延期となり、日本聖書神学校を会場として行われた研修会に牧師館からインターネットで参加した。神学校までそう遠くない卒業生たちは母校に集うことになった。

 

 入学時に定年退職した、とか、既に還暦とい方も決してすくないのが、夜間専門である日本聖書神学校の特徴ではあるが、参加する方たちの卒業期を見ると、いつの間にか、私も「先輩」の年代に確実に入り始めていることがわかる。とは言え、大先輩や少し先輩の方々も健在であっても、ただ、この日、参加していないというだけのことでもある。

 

 〈Zoom〉というもので、Webによる参加が可能になったので、開会礼拝の時、PC(*パソコン)の前に独り座り、賛美歌を歌いだした頃に確かに思ったことがある。

 

 それは、あー、これがいつも教会でやっているYouTube礼拝なのだな、ということ。ほとんど違和感も寂しさも感じることなく、参加できるのだからすごい。

 

 もちろん、参加者全体の様子であるとか、昼休みとか、終了後に、会いたかった人との個別の話などは出来ないが、体調が悪かろうが、お金がなかろうが、参加できるメリットの方が遥かに大きいのは間違いない。

 

 個別の事柄について記し始めたら切りが無いが、新幹線で出掛けていたら11時の開会礼拝に間に合うには5時前起きだが、普段着で、最新の新約聖書学の講演を聴き、同窓会総会で共に一年を振り返り、三役のご苦労のを知り、母校の弱さも強さも改めておもったりと内容豊かである。

 

 昼休みは、13時から僅か45分とハードスケジュールだが、牧師館の食卓に10秒で移動し、直ぐに昼食をとれるのだからやはり便利なことこの上ないのである。

 

 神学校の教務部の先生からの学事に関わる報告を聞いたり、校長先生(一年後輩にあたります)のお話も聴き、さらには、近況報告もWeb参加でもさせて頂けるのだからすごい。一分間限定だが、旭東教会が始めたペット葬儀の報告や望さんの病床洗礼についてひと言話した。

 

 その後、南は長崎県の島原や、北は北海道の太平洋側北部の新得(しんとく)ほか、各地の教会からインターネットで参加の仲間達の近況も聴けるのだ。ズームアップ゚された顔に、おそらくお互いとったなぁ、苦労しているなぁ、等と感じる時間を最後に持ち、閉会帰島して解散。その後0分で帰宅である。くたびれて、新幹線の東京駅に駆け込むこともないし、西大寺駅に23時過ぎ等ということもないのである。

 

 一番さみしいのは、現場を離れることによるリフレッシュがないとか、移動中の読書が出来ないということだろうか。

 

 学生時代も、その後も、やんちゃ牧師だと思っていた後輩は、「里親になって2年です。小学4年で来た子が、30㌢も背が伸びやがって…」と報告してくれた。「牧師館の老朽化も相当で、お葉書で応援をお願いするかも知れません」との声も聞けた。

 

 温かな余韻もしっかりとあるのだ。感謝しています。(もり)

 

 


2020年8月23日(日)午後三時前 森牧師が兼務する十文字平和教会の近くの山懐の田んぼにて 
2020年8月23日(日)午後三時前 森牧師が兼務する十文字平和教会の近くの山懐の田んぼにて 

                    2020年8月23日

         【窓】『先輩にありがとう』

 

将棋の駒で有名な天童という町が山形にある。

 

20年近く前、一度だけおじゃましたことがあるが、山形駅からもそう遠くない所だったと思う。その天童にある日本基督教団天童教会で牧師として長年仕えている神学校の原裕(はら ゆたか)先輩から手紙が届いた。

 

あることで電話で教えを請うた際に、偶然、私が旭東教会の礼拝説教でも紹介したことのある『バルトと蕎麦の花』(阪田寛夫著・2017年・一麦出版社)に出てくる〈縄文訛り〉で説教された、という影山讓牧師(*長野・信濃村伝道所に長年仕えられた)のことで話が盛り上がり、その追伸を下さったのだった。

 

ちなみに『バルトと蕎麦の花』は、芥川賞作家の阪田寛夫さんによる、クリスチャンの限られた人以外にはあまり知られていない名著だと私は思っている。

 

前述の〈縄文訛り〉は阪田寛夫さんの造語だが、このたったひと言だけでも、忘れ難い一冊となった。

 

原先輩から大きな封筒の中には、私の心に残っている影山牧師への尊敬の念と、ほとんど同じ気持ちを抱いていることが伝わってくる、ある時に公にされた文章も含まれており、読んでいて楽しく、嬉しくなった。

 

長野県の教会内の交わり(北信分区)の中で、格好悪くとも、舌足らずの話し方であろうとも、力強く、インテリぴ牧師が多かった中、自分の言葉で魂を込めて簡潔に説教を語ることを影山牧師から学んだこと。影山先生との交流は、初任地での奮闘努力の最中の唯一の息抜きだったこと、そして、最も感化を受けた牧師だったとも記されていた。

 

影山牧師は短歌を趣味とされ、限られた17文字に入れるためには、捨てることが大切だということを教えられた、とのこと。

 

原先輩ご自身は、現時点でのご自分の説教は、120文字でひとつの話(段落)をまとめる努力と工夫につながっている、と電話で話していたことも示唆深いものだった。

 

それにしても、牧師の先輩方からのご配慮や手紙というものは、卒業校の枠組みを超えて、しみじみ有り難いもの。

 

どのような恩返し?が出来るだろうか。(もり)

 


2020年8月16日・光子さん 受洗 旭東教会礼拝堂にて
2020年8月16日・光子さん 受洗 旭東教会礼拝堂にて

      2020年8月16日

【窓】『光子さんを〈後押し〉した人』

 

きょうの礼拝で洗礼を受けられる光子さんをめぐるお話をひとつ。

 

私はお目に掛かってお話をしたことは無いのだが、光子さんを確かに旭東教会へと導いて下さった方が居られる。お父さまも熱心なキリスト者であったことは伺っているが、父上ではない。

 

光子さんが初めて教会にお出でになったのは、今年の1月15日(水)午後の「ちょっと一息 休もう屋」の時間だった。それから程なくして礼拝と「賛美と聖書とお祈りの会」(祈祷会)に光子さんは連なり始めた。

 

あの日の私。

 

光子さんが何から話を始められたのか、今はもうすっかり忘れてしまったけれど、確か、こう言われたはずだ。

 

「(亡くなった)主人が、あの先生はいい人だと言ってました。普段、そんなことを言う人じゃないんです」と。

 

昨年の5月17日に召されたというご主人の辰夫さんが、ある日、旭東教会の前を車で通り掛かった時に言われたそうだ。

 

私は天国におられるご主人さまの辰夫さんのその目に狂いがないことを静かに祈り続けている。(もり)

 

 


2020年8月9日の旭東教会 献花です
2020年8月9日の旭東教会 献花です

     【窓】2020年8月9日

    『 恩師・関田寛雄先生の論文より 』

 

*『「断片」の神学 実践神学の諸問題』 2005年 日本キリスト教団出版局 277頁~304頁におさめられた「異種家族(いわゆるペット)とその葬儀について」

 

「ペットの葬儀」を今後の教会の宣教の一端として考える上で再読した文章の一部をご紹介します。論文の調子のままですと、少し堅苦しく、難しく感じる部分があります。『週報』の枠組みの字数制限もあるため、森の責任で、一部文体を整えてお読み頂きます。

 

論文の初出は『キリスト教論集』四七号、2003年、青山学院大学同窓会基督教学会です。私自身は、関田寛雄先生と1989年に日本聖書神学校で出会って以降、特に、卒業後にお交わりを頂いています。

 

                            *

 

 以下、緑色の部分が関田先生の論考の一部です。

 

「大事なことは、愛した異種家族の死(*「いわゆるペット」)に直面しないでは、真の癒やしは来ないという点である。場合によっては異種家族喪失の経験者の仲間と「記念会」をもつことも有効である」

 

「キリスト教会はこれらの事を話題にする事が信仰の本質と関係ないことのようで、気恥ずかしいと思う向きもあるようだが、そうではない。」

 

「動物への愛の想い出もまた信仰生活の貴重な一部であり、福音は人間生活のトータルに関わり、生活の一切を受けとめてくれるものであるから、しかるべき機会を持つことは、大切な牧会の責任である。」

 

「本稿において述べてきた事は・・・真剣な牧会上の課題として提示したい。」

 

                            *

 

以上、たいへん珍しい、実践神学の貴重な論文からの抜粋である。

 

関田寛雄先生がどこかに記しておられたり(今回未確認)、あるいは、各地で語り続けて来たはずの、ご自身が開拓伝道を始められた川崎戸手伝道所(現在は教会)のある河辺に暮らして居られた一人の男性との出会いが論文の背後にはある。

 

男性は、ご病気でもう命にかかわるような状態になられているその時に、一緒に暮らして居た犬と離れることなどできない、と断固生活の場を離れることを拒否された、はずである。私はある教会に先生をお迎えした際に、そのお話を聴いた。

 

当然、旭東教会には旭東教会の目に見えない、簡単にはお伝えできない文脈が当然あるのだが、この度、ペット葬儀にかかわる真摯な働きを始めることになったので、このことをここに記している。

 

なお、近藤勝彦先生の『万物の救済』(教文館・2009年)という説教集の中におさめられている「エルの埋葬にあたって」は、近藤先生のご一家が14年半共に暮らした同伴家族の死を切っ掛けにしての説教で感銘を受ける。

 

近藤克彦先生は東京神学大学教授、学長を歴任され、現在は理事長として奉仕されている方である。同じ本の中の、「万物の救済」 ローマの信徒への手紙 八章18~25節からの説教も深く考えさせられる説き明かしである。(もり)

 

              **************

 

※補足

【〈ペット葬儀〉の部屋】を本ホームページに設けました。その最後に、以下を、私の挨拶文として記していますので、ここにも引用します。

 

◆ さいごになりましたが ご挨拶 ◆

   日本キリスト教団 旭東教会 牧師 森 言一郎(もり げんいちろう)

 

旭東教会がいわゆるペットの葬儀のお手伝いを行うことには幾つかの理由があります。こんにち私たちの社会では、動物が単なるペットの存在を超えて、掛け替えのない家族の一員となっていることがあります。

 

旭東教会ではグリーフケアの集いをコツコツと続けて来ていますが、そこには、愛するわんちゃんを天に送り、悲しみの中、なかなか立ち直れないご様子の方のお姿もあります。あるいはまた、グリーフケアの集いには、ご自身の経験を通して、動物病院の先生方と連携し、ペットの喪失の悲嘆の中に居られる方のボランティアとして力になりたい、と勉強にお出でになった看護師さんも居られました。

 

教会や身近なところでも、実は、かつてお別れしたペットの死を受け入れがたい状態のままお過ごしになっている場合も時々お見受けしますが、そのことに触れることはタブーのような空気がごく自然に生じることも事実なのです。

 

わたしたちは、愛する、小鳥、猫、犬、リス、うさぎなどを失われた方が、必ず、葬儀をすべきです、などと申し上げるつもりは少しもありません。自由におおらかに、社会・倫理的なルールにしたがい、ご家族で静かにお別れが可能ならば、それで十分とも言えます。

 

かつては土葬もあり、あるいは、火葬後に庭に埋めることも多かったと思います。火葬後、お宅のたんすの上に骨壺を置いている、という方も居られるはずです。

 

しかし、それではどうしても何かが足らない、この子の為に出来る限りのことをしてあげたい、とお感じになる方がおられたり、心の癒やしをキリスト教の神=イエス・キリストに求める方が、やはり、散在しているということも現実ではないかと考えております。

 

中略

 

私たちの教会で60年以上前に子どもの頃をお過ごしだった方がお住まいのカナダの教会では、年に一度、動物たちとの合同礼拝を行っていることも承知しています。

 

これを機会に、旭東教会との出会いが生まれ、様々な事柄をご一緒して下さる方が与えられることも本当の所願っております。どうぞ、私たちの取り組みについて、関心をもち、ご理解を頂ける方は、旭東教会にご連絡ください。 

 

中略

 

以上、たいへん長くなりました。足らないこともあることも承知している中で、私たちなりの誠実さをもって道を歩んでいくことを祈りながら、ご挨拶として記させて頂きました。

 

キリストのうちに 感謝しつつ 2020年8月7日 記

 

 


文中の〈望さん〉の洗礼式のひとこま 2020年6月に、病院内の中庭にて
文中の〈望さん〉の洗礼式のひとこま 2020年6月に、病院内の中庭にて

                    2020年8月25日

              【窓】『旭東教会による福音書』

 

この秋、鳥取市の用瀬(もちがせ)教会と交換講壇が出来たらとなぁ、という願いがあったが、用瀬教会のご事情や新型コロナウイルス関連の影響もあり、他の教会も含めて今年は交換講壇は見送りにしましょう、ということになった。

 

そのやり取りの中、用瀬教会の稗田みどり牧師に、〈○○望さん〉の受洗について教会の週報ほかをMaiに添えて送っていた事も、すっかり忘れていた先週の水曜日、稗田先生より、大きな封筒が教会へ届いた。

 

さっそく開けてみた。すると過日、病院内で洗礼を受けた〈望さん〉と〈旭東教会の皆さん〉へ、という心温まるお祝いの辞が記されたお便りが入っていた。

 

「洗礼式のお写真をお送り下さり胸を熱くし、読ませて頂きました。私にも26才になる息子がおりますが、嬉しさで一杯になりました。心よりお慶び申し上げます」と。

 

私が牧師になってから、あるいは、信仰をもってからだろうか。一人の人の受洗を、他の教会の方がこれ程喜んで下さった例を私は知らないし、経験したことがない。

 

もちろん、せんえつながら私が「稗田先生、こーんな嬉しいことが旭東教会で起こったんですよ!」という趣旨のことをお伝えしたからではあるけれども。

 

とは言え、本当に感動されない限りは、あのようなお便りが届くことはないだろうと思う。

 

まるで、ヨハネによる福音書11章に登場する、マルタとマリアのきょうだいラザロに通じるかのように思える〈望さん〉の無言の伝道が続いている。

 

ラザロは言葉を発することがない「おるだけの存在」でありながら、福音を証しし続けた重い存在だった。(もり)

 


2020年7月26日(日) 森牧師が兼務する十文字平和教会にて。未塗装ですが、講壇が新しくなりました。信徒さんで大工さんの敏久のお仕事です。見事です。教会の皆さん、大喜びです。奥のようにお座りなのは、司式のお当番治生さんです。
2020年7月26日(日) 森牧師が兼務する十文字平和教会にて。未塗装ですが、講壇が新しくなりました。信徒さんで大工さんの敏久のお仕事です。見事です。教会の皆さん、大喜びです。奥のようにお座りなのは、司式のお当番治生さんです。

                      2020年7月26日

                  【窓】『アーメンでした』

 

旭東教会の教会報『緑の牧場』は発行されると召天者のご家族他に郵送している。教会のゆるやかな交わりを形作り、伝道の担い手としても意味深いものと思っている。

 

先週、遠方の三人の方々から感謝のお便りが届いた。ある方は「95歳の教友で中途失明の方に朗読し聴いて頂いてます」とあった。しみじみ有り難いことだ。そして、そのご奉仕の場を思い浮かべると、すごいなぁと思う。巻頭の説教も喜ばれているようでなによりだ。

 

『緑の牧場』は私が兼務している十文字平和教会の方々にもお配りしている。一週を経た礼拝後のひととき、熟読して下さった様子の君子さんから「男の人たちは、やっぱり純粋ですなぁ」と興味深い言葉をお聴きした。うんうん、と静かにうなずいていたが、思わず「女の人は純粋じゃありませんか」と突っこみを入れそうになったが止(よ)した。

 

だが、それが切っ掛けでもう一度最新号の『緑の牧場』を読み直してみると、なるほど「純粋」の感想は実に的を射ているのかも知れない、と気付かされた次第である。(もり)

 

 


2020年6月26日 AB望さんの洗礼式 病院の中庭にて 皆さんがうんと離れている時間の方が長かったです。手前右が主治医さんで、何とこの日クリスチャンとわかりました。。
2020年6月26日 AB望さんの洗礼式 病院の中庭にて 皆さんがうんと離れている時間の方が長かったです。手前右が主治医さんで、何とこの日クリスチャンとわかりました。。

    2020年7月19日

  【窓】『 彼も伝道中 』

 

教会報『緑の牧場』の次の号は9月末に発行される予定だが、その時、巻頭言にまとめたいなと思うことが。それは〈AB望さん〉の受洗である。

 

HPでお読みなる方には、ちょっと流れがわかりにくい所があると思うので、週報でご紹介した、望さんについての洗礼式関連の情報を、プライバシーに配慮した形で、以下ご紹介しようと思う。

 

◆2021年6月14日の『週報・お知らせ欄』

○《6/26(金)「AB 望(のぞむ)さんの洗礼式」のためにお祈り下さい》AB望さんは教会員のAB寿子さんのご子息で、現在24歳。生まれながらの重い障がいがあり、ご自身で意志表示をすることは困難ですが、先月の役員会にて寿子さんより「家族の同意を得てのことですが、これから先、一切を神のみ手に委ね、望が洗礼を受けキリスト者として生涯を生きていくことを願っています」との申し出を受けました。役員会はこれを感謝して受けとめ準備を始めていました。この度、現在お過ごしの病院より、6月26日(金)の午前、散歩の時間に洗礼式を行うことについてご理解を得ることが出来ました。AB望さんのような重い障がいをお持ちの方の信仰告白は、教会全体がその責任(*寿子さんの信仰はもちろんのこと)を自覚し、信仰者として望さんと共に生き続ける姿勢をもつことなのです。牧師と何名かの教会員は、寿子さんに導かれて、病室をお訪ねし、話し掛け、聖書を読み、賛美し、お祈りを合わせたこともあり(*賛美を喜んでおられるように見えました)ます。次週、6月21日の主日礼拝でAB望さんの洗礼執行のために、教会としての信仰告白の場を設け、洗礼式当日、皆さんの祈りと信仰告白を牧師が持ち運んで授洗いたします。

 

◆2021年6月21日の『週報・お知らせ欄』

○《「AB 望(のぞむ)さん」受洗おめでとうございます》本日の礼拝でAB望さんの洗礼式を開始し、6月26日(金)午前、病棟内で森牧師が授洗します。望さんは生まれながらに重い障がいをお持ちで、ご自分だけの力での信仰告白は困難ですので、お母さまの寿子さん、そして旭東教会一同の祈りと誓約によって信仰告白をいたします。神の家族の一員に望さんが加えられることは神さまの計り知れないご計画です。共に喜び、共に涙する道を歩みここから始めます。洗礼式に際して、AB望さんのこれまでの歩みについて、母親の寿子さんの言葉に心傾ける時間をもちます。【 AB望さんご紹介】別紙写真は、2018年4月22日(日)の訪問時のもの】誕生日:1995年(平成7年)9月12日。教会員のAB寿子さんのご長男。現在24歳。お過ごしの病院:XYZ病院・T病棟。

 

○同日の週報に準備された、洗礼式の式文

AB望さん 洗礼式の「誓約」の言葉 *お知らせ欄も参照

 

牧師 あなた方は、イエス・キリストがあなた方の救い主であると、心から信じますか。

  親・教会員 「 信じます。」

 

牧師 あなた方は、父・子・聖霊なる唯一の神を信じ、神の言葉に従って生きることを願いますか。

 

  親・教会員 「 信じ、願います。」

 

牧師 あなた方は、AB望さんが神の恵みの契約のうちにあることを信じ、望さんが洗礼を受けることを願いますか。

 

  親・教会員 「 信じ、願います。」

 

牧師 あなた方は、AB望さんを教会の信仰生活の中で認め合い、主イエス・キリストに従って共に生きることを約束しますか。

 

  親・教会員 「 はい、約束します。」

 

                 礼拝者一同 起立

 

牧師 あなた方は旭東教会の一員として、今週、6月26日(金)午前10時半、XYZ病院・T病棟にて洗礼を受け、キリストのみ体なる教会のひと枝に加えられるAB望さんを、絶えず愛と祈りをもって覚え、共にキリストの教会のわざに参与し続けることを約束しますか。

  親・教会員 「 はい、約束します。」                           以上

 

◆2021年6月28日の『週報・お知らせ欄』

○《6/26(金)午前「AB望(のぞむ)さん」の洗礼式 神さまに感謝!》先週の礼拝でお母さまの寿子さんの証しを聴き、皆さんの誓約と祈りに送り出されて、入院先の病棟にて洗礼式を執り行いました。洗礼式補助は岸本役員が行いました。病棟内には入れませんでしたが、正さん・清美さん・美樹さんの皆さんが病院に同行。洗礼式後、賛美と感謝の祈りの時をもちました。現在の旭東教会で最年少となる24歳の青年が神の家族として与えられました。AB望さんの授洗で私たちは多くの気付きを与えられました。皆さまのお祈りにも深謝。

 

※週報の抜粋記載終わり

 

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2020年10月以降の『信徒の友』の「日毎の糧・祈りの課題」で(岡山県の教会を)取り上げますよという往復ハガキが届き、集会統計などの他に、70字で祈ってほしいことをお知らせ下さい、ということだったのであれこれ思い巡らした。そして、名前を記したわけではないが、以下のような祈りの課題を掲げさせて頂いた。メールでも可とあったので編集部にメールを入れた。

 

【祈りの課題】

生まれつき重い障がいと共に生きてきた24歳の青年の受洗によって示されたみ業に深く感謝し悔い改めました。地域に根差す教会としての成長を願います。

 

すると、最初、『信徒の友』の違う部署のアドレスにメール送信したこともあり、お二人の編集者からのメール応答があった。お一人は「青年の受洗、伺うだけでも希望を感じます。」と記されていて嬉しかった。

 

もうお一方は、「祈りの課題を読んで感動しました。障害ゆえにイエスに触れる機会も限られていたことと思います。そのような中で、よく導かれたと・・・・・・神の御業を想います。」とあった。

 

実は、別の形で書簡によるやりとりをしていた、来年1月にお迎えする関田寛雄先生(*青山学院大学名誉教授)からも「AB望さんの受洗のことは圧巻。この事ひとつ挙げても旭東教会がまさにイエス・キリストの教会であることが立派に証しできます」との励ましを下さった。

 

生まれながらに、動くことも、語ることも出来ない望さんは確かに伝道中である。(もり)

 


AB望さんの洗礼式の様子 Clickで拡大されたキャプションが出ます



2020年7月12日の旭東教会の講壇の献花です。日曜日には申し訳ないことに気が付かなかったのですが(バタバタしてました)、芸術です、この献花。雅代さんに感謝。
2020年7月12日の旭東教会の講壇の献花です。日曜日には申し訳ないことに気が付かなかったのですが(バタバタしてました)、芸術です、この献花。雅代さんに感謝。

    2020年7月12日

 【窓】『 ある音楽家の話 』

 

あの、美空ひばりが、あるいは、石原裕次郎が楽譜を読めない歌手だったという話を聞いたことがあるが、今、人気の作曲家もそうだということを先日知った。

 

7月9日(木)の昼過ぎ、「賛美と聖書とお祈りの会」(旧・祈祷会)が終わったあと、NHKのTVで豪雨情報を確かめ次の番組を流しっ放しにしていると、横山剣(けん)という〈クレイジーケンバンド〉のボーカルで作曲家の方(私と同じ1960年生まれ)を、船越英一郎と美保純が迎えて色々と紹介していた。

 

ちなみに、横山さんは、「スパークだ!」という曲をクレイジーケンバンドとして、NHKの〈みんなのうた〉で歌っていて(2014年6月?7月)、どこかで聴いたことのある方も多いはず。

 

その横山さんが、楽譜も読めないし書けないという。

 

でも、番組で、横山剣さんは、胸を張り、何とも楽しそうに語り続けた。それだけでも、私にとってはなんとも言えない感動だった。

 

バンドの仲間たちのことも紹介されていたけれど、ほとんど彼らが楽譜を起こして助けてくれるらしい。もっとも、キーボードの前に座ってある程度自由に弾きながら作曲をする様子も放送されていたが。

 

実に、固定観念にがんじがらめというか、頭が堅いのは私だったなのかなぁ、と思う。

 

ちゃんと楽譜が読めなかろうが、楽譜をかけなくとも、ミュージシャンとして何の問題もないのだ。

 

これは、楽譜が読めなくても、音痴であろうとも、「わたし、賛美歌大好きな」という方が教会に居るのはてもよいことに通ずると思う。

 

言葉が足りないのだけれども、私は他にもすごく勇気づけられる何かを頂いたことを感じている。

 

私たちはどこかで、「○○をしている人なんだから、当然、こうだ」という刷り込み(思い込ませ、植え付けること)をされたり、して来ているのだ。あー、なんとつまらないことか。そして、ちいさな心だろう。

 

イエスさまは「あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にする」(ヨハネによる福音書 8章32節)と仰っていることを思い起こしている。(もり)

 

 


2020年7月5日 旭東教会講壇献花です
2020年7月5日 旭東教会講壇献花です

     2020年7月5日【窓】

   『 天国の同級生の説教集 』

 

私が、母校・日本聖書神学校に入学したのは1989年4月のことだった。場所はJR山手線の目白駅を下車し(東京駅から内回りでも、外回りでも約30分)徒歩10分程のところ。1989年というのは、昭和64年・平成元年という節目の年でもあった。

 

去年で献身後30年ということになる。

 

日本聖書神学校は夜間の学校ゆえ、働きながら学ぶことが出来るので、20代~50代までの7人程と共に学び始めた。要するに家族もちでも、かろうじて家族を養いながら学ぶことが出来るという神学校である。定員があるのかどうか確かめたことはないが、いずれにしても今も昔もかわらず、規模的には寺子屋のような学校だ。

 

その中の同級生の一人が荒瀬正彦さんだった。

 

ご長男が私と同じ歳で既に牧師(現在神学校で実践神学部門の教授をされている、荒瀬牧彦先生)という方。荒瀬正彦さんは同級生では年配の方だったのだが、昨年5月、84歳で穏やかに召天された。一年が過ぎて、故人の説教集が届いた。

 

先頃、前述のご子息・牧彦先生が(以下、もりが少し編集)「この説教集。「説教集を出したら?」という私に「いや、残すような説教はしていないから」と言っていた父が、これをどう思うかはわかりません。それにもかかわらずこの本をまとめることにしたのは、荒瀬正彦という人間の追憶のためというよりは、説教者荒瀬正彦がずっと伝えようとしていたことを、もう一度きっちりと確かめておきたい、そして周りの方々にも聴いて頂きたい、という思いがあったからです。」という思いの中で刊行された説教集は『信仰の駅伝』(非売品と思います。発行人は奥さまの典子さん)というタイトルがつけられていて、あれこれを思い巡らす。

 

振り返ってみれば、荒瀬さんが二つ目の任地である福島県喜多方教会に仕えておられた時、そして、神学校の隣にある目白教会で牧会されていた時分に相談をしに出掛けたこともある方だ。

 

おそらく、多くの同労者たちが、なにかにつけ、話をしに荒瀬さんの元に出掛けていたのではないか、と思う。

 

あらためて考えてみると、同級生が現場に出てからの説教は、めったに聴くことがなく、色々な意味で興味深くありがたいものを贈って頂いた思う。

 

『信仰の駅伝』には9つの説教がおさめられているのだが、いずれも語り口調がわかるような完成されたもの。私のスタイルと相当に違うがゆえに、ますます興味深く、急いで読むのがもったいなくて、3日に一つ位のペースで味読している。

 

ゆっくりと読んでいるのは、単に、過去を懐かしむだけの理由ではない。

 

何かの力を確かに受け、在天の同級生である荒瀬牧師と共に、福音の指し示し方をあらためて考えたり、倣ったり、反発したりしながら、なお考え続けることが出来るから力を感じているからなのだ。

 

「学ぶに終わりなし」

 

そのよい切っ掛けを、同級生が備えていてくれた。ネジをゆっくりと巻き直したい。end

 

 


2020年6月26日(金)午前 洗礼式終了直後の望さん のんちゃんと、私たち、何としても信仰の旅路を深めてゆきたいです。
2020年6月26日(金)午前 洗礼式終了直後の望さん のんちゃんと、私たち、何としても信仰の旅路を深めてゆきたいです。

 【窓】『少しお役に立てたかな』

 

「妻を74歳で送りました。コロナもありますし、周りは年寄りばかりで、一日、誰とも話をせんことがあります」「落ちこむ日と、少しいい日と差が大きいです」とお話しになる男性がグリーフケアの集いに来会。

 

関東方面にお住まいとお聴きしたご子息の職場でも同様の会が開かれているそうで、パソコン検索で見つけて下さったのだろう。「旭東教会に出掛けてごらん」と教えられたという。

 

少し、宣伝じみたことになるが、現在、インターネットのWebサイトを「グリーフケアの集い」で検索すると、おそらくどの検索サイトでも、二番目に、旭東教会のグリーフケアの集いが出てくるはず。それで、私たちのグリーフケアの集いを知られたのだ。

 

お子さんが親御さんに代わって旭東教会のグリーフケアの集いを探し当てる、というパターンは時々あることだ。

 

後日、わかったことだが、グリーフケアの集いの当日にご紹介したアルフォンス・デーケン神父さまが主催されていた、「東京・生と死を考える会」の関連の講座に、ご子息ご夫妻も参加されていたことがわかったと、その後に頂いた電話で教えて下さった。それは安心材料だったことと思う。

 

今回のグリーフケアの集いでわたしが少し強調しながら紹介させて頂いたのは、イングランドの詩人で劇作家・シェイクスピアの「口に出してお嘆きなさい。物言わぬ悲しみは、張り詰めた心へ向けて、こっそりと裂けるように命ずるものです」という言葉だった。

 

だがしかし、それ以上に来会された男性は、私が参加させて頂いてよかったなぁと思う言葉は「デーケン神父さまの言われた〈出会い〉」でした、と二日後に電話で言われていた。心への残り方は人それぞれであり、不思議なものだと思う。

 

(*スマートフォンを取り出し)「こどもからこれを渡されたんです。忙しい子どもたちとはメールだけが繋がりのこともあります」とも仰った。「テレビは話し相手にはなりませんしね」「父さん泣くのは100日迄よ」と言われることがありますとも。

 

おそらく、3月に召された奥さまのことを100日、つまり、3ヶ月で区切りを付けてこころの整理をすることに焦りを感じておられるのだろう。

 

「来てよかったです」と言われながら次の会の予定をメモされた男性に、私は「しっかり悲しんで下さい」とお伝えしてお見送りした。本当にそうなのだ。我慢するは少しもない。

 

そして、この窓の週報版を書き終えて暫くした頃に、男性から、「勇気をもらいました」というお電話を頂いた。すなわちそれは、翻訳するならば、もう少し頑張って生きていきたいと思います、という言葉だったのだと思う。(もり)

 

 


2020年6月21日・洗礼式を始めました(この言い方にはわけがあります)(^^♪  洗礼盤は教会員で備前焼陶芸家の明美さんの作。素晴らしい繊細さです。
2020年6月21日・洗礼式を始めました(この言い方にはわけがあります)(^^♪ 洗礼盤は教会員で備前焼陶芸家の明美さんの作。素晴らしい繊細さです。

    2020年6月21日

  【窓】『 牧師冥利? 』

 

旭東教会では、半年程前までは「祈祷会」と呼んでいた「賛美と聖書とお祈りの会」で旧約の『詩篇』を学び始めて6年目に入った。途中、101篇~124篇を後回しにして現在147篇までたどり着いた。

 

だいぶ分厚くなってきた手作りの冊子型の「資料」を毎回お配りするのだが、あれは、自己満足のためではなく、あそこまで準備しないと、私自身が詩編を説き明かすことができない、というのが本音だ。

 

自分専用に手元に置いてチラチラと見るよりも、手の内をすべて知って頂く方が、皆さんの学びにもなると思っている。YouTubeでお聴きの方にもお読み頂けるように、PDF版をホームページで準備している。

 

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数年前に自覚し始めたのだが、配布する資料の準備は、野球選手のバットの素振りや、お相撲さんが四股を踏むのに通じているようだ。聖書がわかる筋道や方法の基礎練習を続けているように感じるのだ。

 

同労の牧師たちの中には、礼拝の聖書箇所の翻訳を必ず全部する、という方が居ることを知っているが、私にはとてもそこまでは出来ない。

 

恩師とも言える今は亡き入江清弘先生が、説教準備で、少なくとも一カ所は原典にあたるようにしています、とお話しされていたことは忘れないようにしている。

 

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6月14日の礼拝後、その『詩篇』の学びに関連して嬉しいお言葉をお聴きした。

 

11日(木)夜、教会までお出でになりながら、「賛美と聖書とお祈りの会」との開始直前、体調に不安を覚え帰宅された〈正さん〉の笑顔の言葉だ。

 

ご自宅で〈YouTube〉でご一緒下さったようで「146篇はいいですねぇ!暗誦したい」と笑顔で言葉にされた。

 

その言葉は、私の心の中に今も余韻があり、牧師の小さな幸せを感じる。

 

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キリスト教放送局FEBCのメインパーソナリティの吉崎恵子さんが詩編を全篇暗記されている、という話をなさっていた記憶がある。

 

ユダヤの人々は幼い頃から詩編を暗唱していたはず。主イエスも、当然、暗記されていて、十字架の上で、祈りながら死を遂げられたのではなかろうかと思う。

 

「もりくん、詩編の聖書研究はしたか? いいぞー」と言われたU牧師の言葉もまた、今の私を支えてくれているし、そのお言葉にもアーメンとの思いをも深めている。

 

今回「窓」を読まれた方。ぜひ、詩編146篇を直ぐにお開きになり、声を出して読んで見てはどうでしょう。正さんの言葉に、深く共感されるかも知れないですよ。(もり)

 

 


礼拝堂のバルコニーの(かなり天上に近い)端っこにて礼拝を見守るツバメさん(^^♪
礼拝堂のバルコニーの(かなり天上に近い)端っこにて礼拝を見守るツバメさん(^^♪

               2020年6月14日

  【窓】『 玄関の網戸ゆえに 』

 

この度の礼拝堂の改修工事が始まった直後の5月17日の礼拝前の聖歌隊の練習の頃だっただろうか。礼拝堂に珍客が舞い込んで来た。ツバメだった。

 

この度のコロナ禍の影響で、換気をよりしっかりと実践して行くために、礼拝堂の窓をすべて開け放っているし、ビルディングの教会と違って、築97年を迎えている礼拝堂は換気環境は抜群にいい。つまり、非常に窓がたくさんありその窓も大きい。

 

ツバメさん、最初は高い天井の礼拝堂を旋回していたけれど、あるポイントを見つけるとそこから暫く礼拝の様子を眺めるかのように停まり、また、飛び立っては停まりを繰り返したが、人間が居る、窓辺のある低さにはやってこない。

 

ツバメさん、窓辺ということがわからないのか、窓が開いているのが見えないのか、人間を警戒しているのか、礼拝の後半まで外に出て行けなかった。

 

やがて、外から、仲間たちのさえずりが聞こえ始めて、「こっち、こっち」の励ましに勇気づけられたのか、確か、礼拝の後半には無事教会から旅立って行くことが出来た。

 

実は、その後工事が進む中、当初思いもしなかった新型コロナに関連しての対策で、換気しやすい環境を夏場にも作りやすくする為〈網戸〉をつけることになった。「家には網戸あるのにねぇ」という声も聞こえたけれど、考えて見ると、網戸が設置されていないことも不思議だった。

 

網戸がなかったからだと思うが、夏場はアースノーマットの類いのセッティングが欠かせない礼拝堂だったのだが、そのことを不思議に思わなかったのは、週に一度だけしか礼拝堂に人が集まらないということも大きいのかも知れない。

 

ただし、これで、おそらくもう二度と礼拝堂にツバメさんが飛び込んで来ることはさすがにないだろうと思う。蜂が入って来て大騒ぎすることもほぼゼロに近いか。

 

そうそう、余談ながら、5年前の9月の一成さんの葬儀・前夜式の後には、コウモリが礼拝堂を飛び回り、追い出すのにご家族と共に四苦八苦したことも懐かしい。コウモリは僅かな隙間でもあれば、楽々くぐり抜けるかも知れないが、もう礼拝堂ではお目に掛からないかかな、と思う。

 

網戸は、25年前に出来た現在の玄関ホールの扉部分にもアコーディオン式のものを設置した。その結果、平日、玄関を開けっぱなしていると、風向きによってはこれまで感じたことのない心地よい風が、玄関から礼拝堂にぴゅーっと吹き込む日があることを知った。

 

ペンテコステ・聖霊降臨日を迎えた今、あー、教会って、人間の心も開かれていないと聖霊が吹き抜けたりしないのだなぁ、と思わされている。そして、扉が開いている教会の意味は決して小さくないなと思う。

 

これからは皆さんと共に、心して、風通しのよい教会であれるように努めたいものだ。(もり)

玄関に網戸を取り付けに来られたアルミサッシ屋さん。
玄関に網戸を取り付けに来られたアルミサッシ屋さん。

2020年6月7日(日)の昼過ぎ アジサイはやっぱり雨が似合うな、と思った。しかし、お日さまの元で過ごすアジサイもけなげにアジサイだな、と今は思い直している。
2020年6月7日(日)の昼過ぎ アジサイはやっぱり雨が似合うな、と思った。しかし、お日さまの元で過ごすアジサイもけなげにアジサイだな、と今は思い直している。

                    2020年6月7日

                  【窓】『本と人と』

 

二十歳(はたち)を過ぎた頃の私は、本の速読・多読が立派なおとなになる早道だと思い込んでいた節(ふし)がある。

 

ところがである。あれから40年近く経ち、もう孫が居てもよい年代になっている今、振り返ってみると、多読・速読が自分の力になってきたかと言えば、明確に否である。

 

むしろ数は少なくても、大事にしたい世界を本当にじっくり安心して味わうことの方が自分には合っていると思うのだ。実のところ、牧師だからということではない(と思いたいが)『聖書』はつくづく面白いものだと感じることが多い。

 

                            *

 

詩人で随筆家、そして書評もなさり、薬草のお仕事にも深く関わってこられた若松栄輔氏は『2014年版 キリスト教総目録』の巻頭エッセイで、『ナルニア国物語』の作者であり『キリスト教の精髄』などを記した神学者であもるC.Sルイスの言葉を引用したあとこう記された。

 

「・・・ルイスはおそらく読者に、待つことの重要性を問いかけている。彼が願ったのは、多くの言葉に出会うことではなく、魂の奥に届く、真実のコトバとの邂逅(かいこう)だった。彼は自らを訪れるコトバにだけ寄り添う。言葉は探すものではなく、訪れるものだった、というのである。よろこばしき者が来訪するとき、出会いを成就させたいと願うなら、私たちはその場を離れず、静かに佇(たたずんで)んでいなくてはならない。ときに動かないことばはもっとも積極的な営みとなる。「読む」とは言葉を前にして、その奥に隠れている意味の顕れを待つことではないだろうか」

 

ちなみに、若松さんはカトリックの信者さんのはずであるし、中央公論新社より『イエス伝』という書も2015年に出されている方だ。

 

                            *

 

小学校四年生の頃、四畳半の子ども部屋にあった私の宝物は『世界の名車 百選』(*正式名はわからない)という本だった。

 

少しも飽きることなく、開いては眺め、何かを発見しては憧れていた。子ども向けの本だったと思うが、古本で出てこないだろうかと、時々、検索を掛けるのだが見つかっていない。

 

今は、人との出会いも同じように思っている。「友だち何人できるかな」は、ほぼ確実に、余計なお世話の場合が多いのではないか。

 

こんなことを記すのも、私はどこかで、ほんもののことばを探し続けているからなのだろう、と思うこの頃である。それは、実に、思いかげない形で新型コロナがもたらした、もはや新型コロナ以前に戻ることはない、新時代の混沌と深淵の縁に身を置いているからだと考えている。(もり)

 

            **************

 

※追伸

『本のひろば』2019年9月号 「出会い・本・人」 身勝手ですが、これでもだいじょうぶ」にはこんなことも記していた。

 

サラリーマン生活を始めた1983年頃のことである。当時の私は、内藤陳さんの「読まずに死ねるか!」が連載されていた『月刊プレイボーイ』を楽しみにしていた。内藤さんの本業はコメディアンだが、無類の読書家にして日本冒険小説協会の会長をなさり、新宿ゴールデン街で「深夜プラスワン」というバーを経営。「ハードボイルドな生き方をするなら、コレを読め」と、命がけで語る内藤さんに気付いた私は、いつしか、本物を感じ始めていた。

 

ところがである。内藤さんだけでなく、新聞の書評欄などで紹介される本を手にする私は、途中で投げ出すことがよくあった。いや、今でも最後まで読み通すことが出来ない本があるのは、相も変わらずである。

 

還暦が近くなった私にも、ひとさまに本を読む術(すべ)のようなことを語る場面が時々ある。その術とは、手にした本が何であれ、応用可能な身勝手な読み方とも言える。一冊の本の中に、一行、一文。否、たったひと言でも「これだ」と確信するものを掴むことが出来さえすれば、よしとする、というもの。実際、そのような邂逅を与えられた数冊の本を時々引っぱり出しては、しばらく眺め、重ね置き、私は安心して生きている。(以上)

 

 


ペンテコステの講壇にて 森牧師は講壇の上で椅子を移動して立っているところ。工事開始前はこの高さに講壇はあった。
ペンテコステの講壇にて 森牧師は講壇の上で椅子を移動して立っているところ。工事開始前はこの高さに講壇はあった。

     2020年5月31日

  【窓】『一時停止 そして出発』

 

5/11(月)から3週にわたって進んで来た礼拝堂講壇の改修、及び、床の工事が無事に終了した。

 

とりわけ、講壇の改修は、費用の掛かり方等とは違う観点からみても、実は、教会としてはかなり大きな取り組みだったことに気づかされている。

 

この度の工事は、維持でも、美装でもなく、み言葉が語られるその場所が歴史的なものを維持しながら、神学的にも検討し、一新されていることの意味は決して小さくないだろう。

 

少しだけ、窓の加筆版を準備するにあたり、記録を確かめてみたのだが、2018年8月に「会堂の将来を語り合う会」を行い、副題として「教会が残したいこと、伝え続けたいことは何か」ということを話し合っていた。

 

私が発題をしていたのだが、そこでの書き出しには(経過年数は2年前のまま)、

 

【現会堂献堂】1923年3月(大正12年)*95年経過…100年間近

【大屋根葺替】1985年(昭和60年)33年経過

【牧師館付付属館献堂】1996年(平成8年)22年経過

【現礼拝堂・付属館補修(修復)】2013年(平成25年)5年経過

 

とある。

 

教会とは建物ではないのだが、さまざまな形で、維持の努力が要ることが足跡を見てもわかる。

 

この度は表の看板工事も実施。ここでご紹介する写真の案内版もその一つだ。

 

一体何が講壇や床、様々な備品等を整えていく原動力となっているのだろう。考えてみた。

 

もしもこの度の取り組みが、〈森牧師〉のやる気に依るものであったら注意が必要どころか旭東教会の明日はない。私たちを動かしているのは他の誰でもなく神ご自身でありその働きに巻き込まれている者たちの自覚的な応答なのである。

 

先日来の私の坐骨神経痛の痛みも、パウロの棘(とげ)と同じく必要なものだと感じている。私はただただ、福音を旭東教会の皆さんと宣べ伝えたい。(もり)

 

**************

 

※以下は、5月31日の旭東教会の週報・お知らせ欄の抜粋です。

 

○《礼拝堂改修工事が終了 本日から38㎝低くなり、皆さんとの距離が25㎝近くなった「栗の木を使った新しい講壇」からのみ言葉に導かれます》

 

1923年(大正12年)に献堂された現会堂ですが、今を生きる私たちが、賛美しみ言葉に聴き従い、礼拝共同体として共に歩んで行く上での最善の形を求めました。今回の工事では主イエスのみ心を覚え、神学的な見地も踏まえて総合的に検討。講壇を低く小さくしました。十字架を白壁の中に移設したこととあいまって礼拝堂が広く感じられ高さを実感するようになっています。講壇には耐久性・耐水性に優れ、木目がはっきりとし、美しく木の持つ温かみを感じることができる〈栗の木〉を選択。礼拝堂・玄関ホール・礼拝堂奥の両脇の部屋の〈床材〉を一新。講壇の椅子や机等にも手を入れ、様々な音響関連の配線も床下を通しました。

 

 


こちらの写真はペンキ屋さん。座面は白木だったのがいつしか他のところと同じ色になっていく。息子さんは親父さんが塗ると直ぐに拭き上げることを繰り返した。
こちらの写真はペンキ屋さん。座面は白木だったのがいつしか他のところと同じ色になっていく。息子さんは親父さんが塗ると直ぐに拭き上げることを繰り返した。

    2020年5月24日

 【窓】『 職人さんと教会 』

 

礼拝堂、特に講壇の改修工事が様々に進んだ一週間は目まぐるしかった。

 

講壇を思いきって低くし(実測 38㎝下がった)、15㎝程奥行きを小さくし、骨組みも含めて新たに形作るというメインの大工さんの仕事が済んだのは先週末。

 

今週に入ってから姿を見せ始めたのは専門分野に生きる職人さんたちだった。

 

もちろん、大工さんは全体のことに目配りし、電気工事関連も進められるのだが、大工さん以外の方たちが次々にお出でになった。

 

講壇の特徴あるモザイクの真ん中に漆喰(しっくい)を塗り込んだのは70歳を超えた左官さん。この方は社長さんだったようで、週末にもうお一方別の方が来られた。

 

ベルギー産のフロアータイルと呼ばれる床材を貼り込むのは「自分は床専門の人間です」と言われる40歳位の職人さんだった。後日、「この職人さんに仕事を頼んだのは私です」とおっしゃる年配の親方職人さんが、「あの方は引っぱりだこなんです。床だけ、という人は珍しいです。きれいな床に仕上がって、ベルギー産のタイルは初めてでした」と言っておられた。

 

いや、正確に言うと、何度も床を撫でているのを見掛けた。それは、滅多に見掛けない素材の仕上がり振りに感心していたのだと後で知った。

 

塗装(ペンキ)屋さんは私と同年代の方で、以前、トイレの改修工事の時にもお見かけした方だった。この方は、二十歳過ぎの息子さん(とおぼしき方)を連れて来られる日もあった。

 

それぞれの道で精進し生きている方たちの仕事ぶりを見るのは少しも飽きないどころか面白くてしょうがない。そして仕事ぶりを見守るに付け、我々の教会作りも当てはまるのではないかだろうか、と思っている自分に気が付いた。

 

教会の皆(みんな)の賜物、それがたとえ弱さであっても、生かし生かされていく旭東教会でありたい、と心底願っている。(もり)

 


工事2日でした。確か。この記念パネル写真を見てもらいました。大正12年の礼拝堂献堂時の様子が分かる貴重な一枚です。教会玄関ホールにいつも掲げています。
工事2日でした。確か。この記念パネル写真を見てもらいました。大正12年の礼拝堂献堂時の様子が分かる貴重な一枚です。教会玄関ホールにいつも掲げています。

  2020年5月17日 【窓】

  『 大工さんの鼻唄 』

 

明治36年・1903年に創立された旭東教会。大正12年・1923年に献堂された現会堂の最も大切な場所とも言える礼拝堂の講壇と礼拝堂の床を中心とした改修工事が5/11(月)から始まった。

 

以前から課題であった講壇部分(=司式者、説教者の立つ場所)の高さを神学的な検討にも基づいて低くすることを柱とする改修で、今出来るもっともよい形での礼拝の捧げ方を生み出していこうという明確な筋道が見えてきたことによるもの。

 

一昨年の夏には音響設備を一新。更にその前年には、トイレを大幅改修して快適に使用することが出来るようになった。もう一つ、会堂に外履きのまま入ってくることが出来るようにもなった。更にその前には、エアコン設備を一新して、夏冬、一定程度以上に快適に過ごすことが出来るようになったことも記憶に新しい。

 

いずれも高齢化の現実と安全面を考えての必然の取り組みだったが、ある種の勢いが必要だったことも事実。振り返って見ると、今、ここでということを見逃すことなく、なすべきことに真剣に取り組んできたことに気付かされる。また、神のみ手が働かずしてここまでの導きはなかった。

 

トイレ工事の際も、その素晴らしい仕事ぶりを見せて下さった働き盛りで腕利きの二人の大工さんが一気呵成(かせい)に仕事を進められる様子は何とも心地がよく惚れ惚れする。完成の日が今から楽しみだ。

 

大工さんの世界の当たり前かも知れないが、午前10時、昼の12時、午後3時としっかり休憩される様子は、実はとても教えられるところがある。休むときは休んで、やるときには集中という仕事の仕方は、端から見ていてとても安心感があるのだ。

 

上の写真にも上げさせて頂いたが、休憩中の大工さんに大正12年の献堂式の記念写真をお見せし、現在の礼拝堂にものこされている二本の柱をお知らせすると、とても喜んで下さった。そして、もしかすると、腕まくりされて力が入ったかな、とも思っている。

 

礼拝堂後方の2階部分にあたる牧師室に居ると、大工さんの使う金づちや電動工具の音が響いてくる。さらには楽しげな会話(程よく中身は聞こえない)、ディズニーの鼻唄も聞こえて来る。何とも言えぬ幸せを感じる。そして、これは歴代の牧師先生方も形を変えて経験されてきたであろう、〈牧師冥利〉というものなのだなと思うのである。(もり)

 

 


2020年5月13日(水)夕方 会堂の改修工事の一環ですが、当初予定していなかった受付ホールの床、傷んでいる箇所が見つかり貼り替えを決定。その準備が少し進みました。
2020年5月13日(水)夕方 会堂の改修工事の一環ですが、当初予定していなかった受付ホールの床、傷んでいる箇所が見つかり貼り替えを決定。その準備が少し進みました。

    【窓】『昭和22年~30年台前半』

今、わたしたち旭東教会の礼拝に出席している方の平均年齢はどれくらいだろうか。

 

私が6年前に着任した当時67歳という声がどこからか聞こえて来た記憶がある。ちゃんと計算はしていないけれど、おそらく今も60代後半位の数字が出るのではないだろうか。ご高齢の方々の葬儀に仕えることが多かったから、平均値は+6歳ということはないだろうと思う。

 

数字から割り出す何かが絶対とは思わない。けれども、客観的な現実の数字というのはウソがないものである。

 

何も私は、もっと若い世代がたくさん集う教会目指してがんばろう、と言うのではない。全世代の方々が満遍(まんべん)なく集うのもよいのだが、ある面、明確に意識しながら、うちの教会の中心世代(つまり60歳代後半)の方たちが元気になる教会形成は肝要ではなかろうか。

 

例えば、みんなの教会学校のメッセージの一番の送り先は、誰なのだろう。現在の旭東教会、もしもお子さんが居られる時にも対応出来るように、前半部分は合同礼拝の形式を行い始めてから五年目に入った。

 

だが、子どもの姿が礼拝時にあることは極めてと言ってよいほど少ないのだ。だとするならば、未だ見ぬ子どもたちよりも、聴いてほしいと思う、今集っておられる、或いは、礼拝に出席し始めて間もないあの方この方なのかも知れないのである。

 

教会学校の教師の仲間たちにとって、いきなり大人向けに語ろうとするのはハードルの高いことかも知れない。けれども、スタッフはこの4年間で色々なことを自然に積み重ねて来ており、今がまさに変わり時かも知れないと思っている。

 

そう遠くないところにある礼拝出席200名近い規模の教会では、複数の牧師たちがある約束をして毎週の説教をするという話を直に聞いたことがある。福音書だけしか礼拝では扱わない、そして、こどもにもわかる15分の説教とする、と言われていた。

 

そこには〈みんなの教会学校〉の時間のメッセージを考える上で大いにヒントとなることがある。学ぶに終わりなし、そう思いながら、芯を持ちながらも、柔軟な歩みをと思うこの頃である。(もり)

 

 


4月30日(木)午後 旭東教会墓苑(全70区画)に立てた看板です。
4月30日(木)午後 旭東教会墓苑(全70区画)に立てた看板です。

   2020年5月3日 【窓】

   『 帰り道の気付き 』

 

先週・4月26日の日曜日、兼務する十文字平和教会では愛の鐘ロッジで野外礼拝を行うことになった。コロナ禍の息苦しさから抜け出られるかも、という声が皆さんからあり、自然の流れで前週の礼拝後にごく自然に決まった。

 

ところがである。礼拝が始まって説教の途中頃だから25分位が過ぎた頃だろうか。ゆっくりと雷雲が近づいて来てしまい雨が降り始めた。もちろん風も吹いていた。テーブルの上の印刷物が飛ばされ始めた。

 

これはいかん、寒さも感じて風邪でもひいたらえらいことになると思い、礼拝を中断して急きょ礼拝堂に移動となった。雷雨はさほど厳しくなかったけれど、一時的にはストーブをつける程だったので移動の判断は間違っていなかったと思う。

 

礼拝後は十文字平和教会でも旭東教会と同じように茶菓の時間はなしのため、すぐに解散となり、私もハンドルを握って帰路に着こうとしたのだが何かがおかしい。いつもと違う疲れを感じたのだ。

 

ふだんならば岡山空港方面寄りのバイパスに向かうのだが、車で7分程の逆方向にあるセブンイレブンに寄り道し、カフェオレ、大福ほかのおやつを買い込んで、ふーーーっと息をついた頃に分かったことがある。

 

どうやら、三密を避けるためにちょっと一息入れて、だらだらしながらのお茶の時間がなかったことが身にこたえたようだった。朝から忙しい日は決してこの日だけではないのだが、コロナによる変化をじわりと感じた次第である。(もり)

 

※振り返ってみると、この日は旭東教会の定期教会総会を行った日だったので様々に気を張っていて疲れがあったのかも知れません。

 

※翌週の十文字平和教会の週報には、お知らせ欄にこんなことも書きました。

 

◇《牧師から皆さんへ協力のお願い 「愛餐会」が出来ない今「愛餐会」に代わる時間を礼拝直後に持ちましょう》

 十文字平和教会では新型コロナウイルス関連の事情で「三つの〈密〉を避ける」ため「愛餐会」を休止中です。しかし、近況を様々に分かち合う時間であった「愛餐会」の時間は、ただ茶菓を頂くだけでなく、ほっとしながら教会の交わりを深めるための大事な〈密の時間〉であったことに気付きました。そこで協力のお願いです。一週間の暮らしの中の小さな喜びや感謝、汗したこと、困ったこと、頑張っていること等、各自の喜怒哀楽を分かち合う時間を、礼拝直後、席の移動なしで、少し努力をしながら持ちたいと願うのです。コロナがもたらしているのは忍耐や困難なのは事実ですが、様々な変化の中、新しいことを始める好機でもあります。出来る方からで結構です。ひとり、1,2分程の近況報告をして頂ければ幸いです。お覚え下さい。

 


2020年4月26日 森牧師が兼務する十文字平和教会の庭にて 治生さん撮影の一枚
2020年4月26日 森牧師が兼務する十文字平和教会の庭にて 治生さん撮影の一枚

                    2020年4月26日

                 【窓】『処分不可』

 

5月11日(月)から5月末の土曜日までの20日間程を掛けて、礼拝堂の講壇を低くしたり、外履きでも安心して足を踏み入れられ、基本、ワックス掛け不要の床工事が始まる。

 

ちなみに、4年前から教会には外履きで入ることが出来るようになったのだが、それまでの、スリッパへの履き替えをなくす際に、床工事を行ったわけではなかった。

 

旭東教会での信仰生活が長い方にとっては、これまで、玄関で靴を脱いで教会にということが当たり前だったのだから切り替えが大変だったと思う。

 

ただし、掃除の仕方も含めて大いに努力をして、教会の中はそれ以降、それまでよりも美しく使われるようになった、というか掃除を相当小まめにやって来たという自負もある。

 

何より、確実な高齢化が進む教会において、外履きのまま教会に出入り出来ることは大いに助かることになった。玄関付近での履物の脱ぎ履きは、はっきり言って危険である。

 

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現在の講壇の高さは、大正12年・1923年に献堂された当時ならば普通だったかも知れない。だが、間もなく一世紀が経とうとしている今、歴史ある礼拝堂を大切に、しかも無駄なく、かつ神学的な検討も含めて、これからもこの素晴らしい礼拝堂で礼拝を捧げていこうとすると、様々に無理が生じるのも事実なのだ。

 

過去30年程の間に、旭東教会では牧師(説教者)や司式者が講壇を降りて礼拝を守るなどの努力もなされて来た歴史がある。しかし、この度は、現在の礼拝堂のおもむきをほぼ変えることなく、講壇そのものを低くする工事が始まることになった。

 

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私が着任してからの少なくとも過去5年間で一度も使うことがなかった不要品と思えるようなものが、会堂の奥の方や事務室、そして倉庫に眠ったままになっているので、処分する準備を始めつつある。

 

例えば、講壇の裏に卓球台があるのだが、その存在を知る方、卓球をして遊んだ記憶のある方はどれ程おられるだろう。卓球を教会で楽しむのも本当によいことだと思うのだが、おそらく、この先も、「教会で卓球を」というムーブメントは起こりそうにない。

 

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過日、〈アート引越センター〉の仕事も引き受けているという廃棄物処理業者さんに見積りを兼ねた下見に来て頂いた。

 

お帰りになってから、頂いた名刺をじいっと見つめていると、片隅に、本当に読めない程に小さな文字で「遺品・ゴミ屋敷整理」とあった。立ち話の中でそのような話題があったことも思い出される。

 

石油ストーブなどは、ゴミではなく、外国に輸出することが出来るので、費用は頂きません、と教えて下さった。

 

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翌日のグリーフケアの集い(この会も5年が経った)には、教会外の方で、大切な方を天に送られたご遺族が二度目の参加をして下さった。

 

実は、コロナウイルス関連の事情の中、きっとこの方はこの場を必要とし、開催すれば必ず姿を見せて下さるのではと思っていたのだが、やはり参加して下さった。そして、「もしも、なかったらどうしよう」と思っておられたことが伝わってきた。

 

その方は、ご家族をお宅で看取ってから一年半近くが経っても整理できない思いを少しずつお話された。

 

静かに聴き続けるなか、急いではいけない片付けが私たちの暮らしのただ中にはあることを、深く知らされたのだった。(もり)

 

 


2020年4月19日 旭東教会のイースターエッグ です
2020年4月19日 旭東教会のイースターエッグ です

                  2020年4月19日(日)

                  【窓】『 私の居場所 』

 

私が自覚的に教会に通うようになり、病床で洗礼を受けたのは20代の半ば頃のこと。聖書が深く分かったからというような思いも自覚もなく、高尚な?信仰もなかった。

 

B型肝炎との本格的な闘病が始まりどこにも行く処(ところ)もなく、六畳一間のアパートで独り過ごしていた頃、日曜だけは身を置く場所があった。東京・銀座教会の礼拝だったのだった。仕事もできない、安静をしないといけない、先行きがまったく見えない頃でもあった。

 

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「わたしゃぁ、おるだけの存在やけん」。福岡市南区にある教会で牧師をしていた時、ご一緒させて頂いていたT雅子さんという当時90代のご婦人の挨拶の言葉は今も忘れられない。私はまだ30代半ばだった。

 

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先日、毎週礼拝の献花のご奉仕を続けて下さっている雅代さんとお話ししていると、「先生、献花は私の居場所なんですよ」とポロリと語って下さった。アーメン。

 

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旭東教会の週報に掲げるお祈りの欄に、「誰もが安心して居場所見いだせる教会として」という課題を掲げることがある。それは心底からの私の祈りでもある。(もり)

 

 


Tさんのお葬儀のために準備した花かご
Tさんのお葬儀のために準備した花かご

2020年4月12日

【窓】『ぶどう園の譬え話を語った葬儀』

 

64歳で召されたTさんの告別式を4月7日(火)の午後、礼拝堂で行った。

 

10日程前、旭東教会の会員ではないが、旧知のお兄様より相談を受けていた。土曜日の深夜二時前に電話が入り、日曜日朝8時半からの日程打ち合わせ等があり、緊張の時間が続いたが、何とかご用にあたれてほっとしている。

 

「弟は無神論者だったんです、先生」とお兄様は言われたが、Tさんが召されていくことになる半年程前、「葬式はキリスト教でええか」と聴いたら「うん」と肯(うなず)いたと教えて下さった。

 

面識もないTさんだったが、イエスは「この最後の者にも同じように」と愛を注いで下さると信じてマタイ福音書20章のぶどう園の譬え話より説教した。イエスさまの語られる神の国とは、まさにTさんのためにある、と信じて。

 

火葬を待つ間、お兄様は私の聖書の選択をとても喜んで下さっていることを知りしみじみ嬉しかった。お兄さまは生真面目なクリスチャンで、「若い頃、先生が選ばれた聖書箇所が納得いなかくて、議論したのを覚えています」と仰った。

 

どうやら、ルカによる福音書15章の放蕩息子の譬え話も、納得いかなかったご様子。実は、葬儀の聖書箇所に、放蕩息子の譬え話にするか、ぶどう園の譬え話にするか、少し迷ったところだった。

 

葬儀全般を通じて、二人の弟さんのお兄さんとして、少し複雑なご家庭の事情を抱える中、いつも、一生懸命、兄として真面目に頑張り続けてこられたからこその率直な言葉だと知った。

 

もう一人の弟さんと二人での葬儀。お棺の上には、旭東教会の葬儀専用ホームページでご案内しているように、予算3千円の小さいけれど花かごをそっと置くだけだったが、礼拝堂に射す春の光が優しく包み、私は神の栄光をそこに感じていた。(もり)


森牧師が兼務する十文字平和教会のイースターの飾り付けです
森牧師が兼務する十文字平和教会のイースターの飾り付けです

    2020年4月5日

  【窓】『志村けんさん』

 

私が小学6年生の頃、OBS・大分放送で放映されていた土曜日夜の『8時だョ!全員集合』は絶対に見なければならない番組だった。

 

大分市の片隅にある大在小学校のサッカー少年団(Jリーグが始まる20数年前)の練習の合間、「タブー」(当時はストリップの専用の曲だと当然思っていた)の音楽を口ずさみながら加藤茶さんの真似をみんなでしたり、番組最後のいかりや長介さんの「風呂は入れよ」「歯磨けよ」「宿題しろよ」は暮らしの中の何処かにいつも意識し続けている言葉となっていたのだった。

 

ある頃から、ザ・ドリフターズの後のほうを走り回る体操服姿に見える若者の姿が目に入り始めた。それが、志村けんさんだった。荒井注さんが引退して志村けんさんが入った当初は違和感を感じていたのも記憶している。

 

コメディアンとしてあれほどの人になることを誰が予想していただろうか。

 

志村さんの出身地の東村山は私が生まれた東京都多摩郡東村山のことで(生後1年くらいで大分県に移住)、もしかすると10歳年上の志村さんは、乳母車の中の私の顔をのぞき込んでくれたお兄ちゃんだったかも知れない。

 

新型コロナウイルスに倒れ召されて逝った志村さんを偲ぶお話を聴いていて感銘を受けるのは、志村さんは、長年、子どもからおじいちゃん・おばあちゃんまで、全ての世代に愛されたコメディアンだったこと。そして、人間観察の努力を惜しまずに続けたことが、彼が演じるキャラクターの源泉だったことも知った。

 

家族みんなで大笑いしながら見ることが出来る時間を創り続けた志村さんは深い〈愛〉の人だったのだと思う。そしてまた、志村さん、お母さまを始めとして大いに愛されていた人だった。志村さん、ありがとうございました。(もり)

 


『一つぶのたね』を上演されている布下満兄(十文字平和教会会員)
『一つぶのたね』を上演されている布下満兄(十文字平和教会会員)

    2020年3月29日

【窓】『「一つぶのたね」とみ言葉』

 

3月22日の早春のファミリー礼拝には、画家で十文字平和教会会員の布下満さんが来会。40年程前、十文字平和教会の献堂式に合わせて一晩で描かれたという創作紙芝居『一つぶのたね』を堪能した。本当にすごい。

 

その日3月22日は、旭東教会にとっても、私が兼務する十文字平和教会にとっても幸いな日曜日だったように思う。今も余韻が残っている。

 

当日の様子は、YouTubeで無事配信・録画もできたので、十文字平和教会のホームページでも観ることが出来るように埋め込んだ。丘の上の十文字平和教会の伝道の一助となれば幸いだ。まだ、YouTubeでご覧になっていない方は、ここをClickして味わって頂ければと思う。

 

当日、〈あやさん〉が帰り際に玄関先で口にされたのは、「〈主ご自身が建てられるのでなければ、家を建てる人の苦労は空しい〉を思い出しましたわ」という詩編127篇のみ言葉による感想だった。

 

〈あやさん〉、さりげなく暗記しておられ、心底感動した。

 

以下、『一つぶのたね』のテープに録音された音声を起こして読みものにしたものです。そして、紙芝居の「接写写真を全編」を公開します。ある意味、秘蔵かも知れません。どうぞ、じっくりと味わってみてください。(もり)

 

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                 布下満作 紙芝居

                  『 ひとつぶの種 』

        (40年前のカセットテープを聞いて起こしたものです)

 

岡山県の中央部に、日近(ひじかい)という小さな村がありました。

 

山々に囲まれ、水清く、陽の光やわらかく、まことに雨土の恵みにあふれておりました。

 

土を耕す多くの人はそのことを知ってかいつの頃からか、この地を日近と呼ぶようになりました。

 

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さて、ここに一人の僕があって、神を知る人となって、十文字山の頂きに藁(わら)ぶきの教会堂を建てました。

 

松風の蕭々(しょうしょう)と流れ来る、まことに祈りにふさわしい教会堂でした。

 

ウグイスが鳴き、セミ鳴きて時が流れ行きました。

 

        **************

 

また、一人の牧者があって、鍬(くわ)と聖書を携えて、この山に来ました。

 

幼子たちの小さな心に、み言葉の種をまきました。

 

三々五々集まり来る子供たちは、手を合わせ、神のみ名を小さな口で歌いました。

 

霜が降り日照りがあって長い時が流れ行きました。

 

わらび生え、栗が実って年を重ね行きました。

 

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あれからもう何年でしょう。50年も経ったかも知れません。

 

藁ぶきの教会堂は、朽ちて傾き、年老いた牧者も、頭白くして天に召されていきました。

 

後を継ぐ若き牧者は、この地と人を置いて遠くの地に離れて行きました。

 

雨が降り大地を洗い、パラグイとグズ葉カズラが地を覆いました。

 

牧者と教会を無くした一握りほどの兄弟たちは、まさしく、おおかみの群れの中の子羊の様に似ていました。

 

もし、神様のみ旨でなければ、か弱き芽はいばらに包まれてそのまま朽ち果てるでしょう。

 

        **************

 

そんな頃、新しい牧者がこの地に遣わされることになりました。

 

確かな神様の計画がそこに働いていたのです。

 

神のことばの他、すべてを捨てた伝道者の固い決意を兄弟たちは知りました。

 

大きな喜びを抱きつつも、どうやってお迎えするかについて、多くのとまどいがありました。

 

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一人の兄弟の、小さな家の二階が礼拝堂になりました。

 

日曜学校の第一回目は生徒が二人きりでした。

 

貧しく厳しい伝道が始められ多くの犠牲と試練の歩みの第一歩のように思われました。

 

激しい夕立の日もあり、大粒のあられの日もありました。

 

        **************

 

それにしても、どうしても新しい教会が欲しい。

 

兄弟たちの信仰の土台となる、貧しくとも良い、新しい教会堂が欲しい。

 

新しい酒は新しい革袋に入れなくてはなりません。

 

       **************

 

さて、ここにもう一つの山がありました。

 

その頂きから北を見渡せば、その昔、藁ぶきの教会堂の建てられた十文字山が見えるでしょう。

 

そこから、東にかけては日近(ひじかい)の村々があり、西にかけては大井の村々が見渡せるでしょう。

 

南の連なる山々の向こうには、岡山の街も見つかるでしょう。

 

こんな場所に、新しい教会が建つといいのになあと思うでしょう。

 

そして、そのことが良しとされました。

 

3000坪の山地が、世の常識をはるかに超えた、安い代価で教会のものとして献げられました。

 

その恵みのことは、また別の時に話しましょう。

 

人間の思いでなく、神様のご計画について多くを語らねばならぬでしょう。

 

        **************

 

さあ、教会の建つべき土地は出来ました。

 

しかし、いったいこの山に、どう建てようというのでしょう。

 

土を削るにはブルドーザーを要し、土を運ぶには車を要し、車が通るには道を拡げ、橋を渡さねばなりません。

 

すべてがお金で動く世の中で、無一文の兄弟たちにどんな力があるでしょう。

 

        **************

 

夏のカンカン照りの中、払い下げた線路の枕木で橋を渡し、ブロックを搗(つ)いて道を拡げました。

 

かつて少年の日、十文字山で洗礼を授けられた者が、今、屈強の若者になっていたからです。

 

橋が架かり、道が通り、中古のブルドーザーを購入することになりました。

 

このブルドーザーがどうして手に入ったかについては、多くの知られざる祈りと献金があったのは言うまでもありません。

 

黄色いブルドーザーが、山に落ち着いた日、山から山にまたがる二条の虹が、ブルドーザーをかばうように架かりました。

 

このことを人は偶然と呼ぶでしょうか。

 

その日から毎日ブルドーザーは山を這い回り、岩をうがす音が鳴り響きました。

 

        **************

 

造成を進めるために一兄弟は職を捨てました。

 

今あるどの石、どの土にも、彼のつぶやきと、苛立ちと祈りの汗が染みこんでいるのを忘れることは出来ません。

 

なまやさしい奉仕というものではなく、神と自己との対決の日々であったように思えてなりません。

 

        **************

 

さて、この小さな山からは、粘土、なじめ土、真砂土、大小の岩石と、様々な性質のものがあり、近くの埋め立て地、庭石にその分を得て働きました。

 

今、この会堂を支える石垣の石もそうです。

 

年老いた一人の石工(いしく)は、ある石をあるがままに、ホイホイと積み上げて、まことに素朴に生かして使いました。

 

月が満ち、月が欠け、干ばつと冷害がこの地を通って行きました。

 

世界を覆うインフレの波が、じわじわと押し寄せるさなかと、教会堂建築とがぶつかり合いました。

 

新しい教会堂の構想は、兄弟たち、教会学校の生徒たちで練りました。

 

大きな夢はあっても、厳しい条件の中で、切り詰めた最小限のものになるでしょう。

 

一家族ほどな兄弟たちの口からは、悲観的な言葉もしばしば出ましたが、いつの間にか

 

「かみさまがついとりゃ~、どねにか、なら~」

 

といった風に進みました。それは弱いところにこそ、神の力が現れる、という聖書のことばを体験したからでした。

 

        **************

 

さて、ここに一組の大工の親子があって、この兄弟たちの構想に理解と協力を示してくれることになりました。

 

今どき、古い建物をうまく生かして作るというのは、流行りません。金儲けにならないからです。

 

設計図面の中の半分は、立ち退きを迫られ取り壊した伝道所の古い柱を使うことになるでしょう。

 

しかも、工事のなかばより、いっそう困難な事態が加わりました。

 

材木の高騰、セメント不足、アルミ不足、鉄の不足、ガラスの不足、ビニール不足、教会建築は一時中断もやむを得まいかと思われるほどの、暗い先行きでありました。

 

そんな中で、少しずつ、少しずつ工事は進められて行きました。

 

人が使い捨てた、ススで黒くなったレンガを使って風呂が搗(つ)かれ、廃材を溶接して作られたボウトウ(ボルト)も使われました。

 

口数少ない大工の親子から教えられた事は他にもたくさんの事がありましたが、これもまた、別の処で多く語らねばならないでしょう。

 

        **************

 

皆さん、この会堂を出て下の石垣から上を見上げて下さい。

 

石垣の石、大きな石、ちっちゃな石、丸っこい石、三角のとがった石、肩を寄せ合って、腕を組みあっているでしょう。

 

その上に建った教会堂。今では中身は見えませんが柱を探ってみて下さい。

 

その一本一本が、全国から寄せられた尊い献金の数々であることを。

 

その柱の、あるものはバザーで売った縫いぐるみであるかも知れません。

 

また、床板の一枚は夏のアルバイトで稼いだ日当であるかも知れません。

 

また、電灯の一つは夜々の内職で得た給金であったかも知れません。

 

どんな形を取っているにしても、そのどれもが、強いられた献げものではありません。

 

ある者は医者で、ある者は農工で、ある者は運搬で、ある者は製造で、全国の聖書で結ばれた多くの祈りが働いてこの教会堂は出来ました。

 

ここに至る道のりにあった数々の障害、身に降りかかった危険、中傷、争い、寄せられた厚意、交わり、喜び、それらの一つ一つを述べれば、多くの言葉が必要でしょう。

 

それらの一つ一つが、兄弟たちの信仰を固める神の教えであったことを、今、初めて知るのです。

 

十文字山にまかれた、たった一粒の種のことを想うとき、その50年の流れを偲ぶとき、そこに、生きて働く神の意志を知るのです。(完)


布下満作・『一つぶのたね』 (接写写真撮影版)

以下の紙芝居、Clickすると大きく大きくご覧頂けます。本当に素晴らしいです。お時間あるときに、ゆっくりと味わってください。もったいないです。もり



2020年3月22日(日)早春のファミリー礼拝にて 説教の冒頭 こどもメッセージ ペトロの紙芝居に聴き入る双子ちゃん
2020年3月22日(日)早春のファミリー礼拝にて 説教の冒頭 こどもメッセージ ペトロの紙芝居に聴き入る双子ちゃん

   2020年3月22日

【窓】『 噺家さんと牧師 』

 

私は大阪のABCラジオで、月曜日~木曜日までは朝9時からの『ドッキリ! ハッキリ! 三代澤康司(みおさわ やすし)です』を流す程度だが、聴いていることが多い。とは言え、はじめから終わりまで、ということではないのだが。

 

木曜日のレギュラーのパートナーは桂南天(かつら なんてん)さんという中堅の落語家さんだ。

 

先日、南天さんは、こうぼやいておられた。

 

「新型コロナウイルスの影響で予定していた寄席がすべて休止や延期となり、集中して稽古をする気にもならず、というよりも緊張感が保てず、噺(はなし)自体が出来なくなるか、下手になるのではとほんま不安ですわ。いまぁ、私下手になってます」と話していたのだ。

 

なるほど、そうだろうな、そうかも知れないなぁ、と思い当たる所が牧師であり説教者である私にもある。

 

もしも、礼拝がお休みになり、説教をしないとしたら、相当に調子を落とすかも知れない。

 

毎週、何をどう語ればよいのだろうか、俺は本当に語れるのだろうかと、時にもがき苦しみながらも、それでも講壇に立たせて頂くリズムこそ、今の私が生きていく力の源だと思うからだ。

 

10年近く前、日本最北の町にある稚内教会に赴任する前、体調を崩して教会の現場を離れていた時(=説教を毎週しない状態ということです)、アパートの冷蔵庫の前に立って説教をしていたことも思い出される。

 

新型コロナウイルスの課題、いのちを守ることが、最優先と思っています。(もり)

 


だいぶ前の写真ですが、旭東教会ゆかりのご遺族Sさんたちが来会された時の納骨堂です。左上に見える墓地群は、岡山市の墓苑であります。
だいぶ前の写真ですが、旭東教会ゆかりのご遺族Sさんたちが来会された時の納骨堂です。左上に見える墓地群は、岡山市の墓苑であります。

    2020年3月8日

【窓】『 納骨先はお決まりですか? 』

 

旭東教会には車で10分程の所に教会所有の墓苑がある。

 

そこには、70件(家族)近くの旭東教会とは直接関係しない外部の方々の、それも、宗教・宗派を問わない墓地が立っている。場所は西大寺斎場のすぐ横で、とても恵まれたロケーションである。

 

通路をはさんで左側は岡山市所有の霊園で、右側が旭東教会のもの。空き区画もあるので、少しでもお役に立てる機会があれば、というのは、教会の中の静かな願いでもある。

 

墓苑の一等地にある教会の納骨堂。信仰の先達が祈りと宝をささげ、いや相当な労力を注いで整えてくださったものだが、もう少し利用して下さる方が増えればなぁ、ということが近年の課題でもある。

 

聖徒の日の墓前の祈りの時のほか、納骨式や除草のためにやって来る度に、この納骨堂のロケーションの素晴らしさにはいつも感動している。もちろん、天気がよい日ばかりではないけれど、納骨堂の前に立って、晴天の日に空を見上げると、天に掛かる梯子が見えて、み使いたちが上り下りするかのようにいつも思うのだった。

 

数年前から、役員会でも利用料の規定を改定すべきことで一致していて、口頭では「こういう風にしましょうね」というところまで決まっていた。

 

しかし、ありがちなことながら、あれやこれやと理由をつけて、規則の新しい文案の準備を本腰で進めることが出来なかったのだが、この度、ようやく担当の方々と相談して文案が定まった。

 

定例役員会で「利用料は原則として――円とする。」という単純なものに変更することにしている。おそらく、負担も少ないと思う。ちなみに、納骨堂の規則は役員会の決定によって変更出来ることになっているのだ。

 

この度の変更は、ご遺族の存在を確認できない方や、利用料を準備出来ない方についても、前向きに引受ける姿勢を持っていることがわかる文面を規則に記すことになっている。

 

外部の方の葬儀をかなり積極的にお受けするために専用ホームページ(Clickで飛びます)が出来てから半年ほどが経つが、今度は、納骨堂のゆるやかな利用規程の改定を通じて、世に仕える教会としての柔軟なあり方を実践する、その一歩を踏みだそうとしているだと考えている。

 

召される時(或いは、召天ののち)に、ご家族や関係の方が居られないご事情の方も、今の時代のみならずだが、居られるに違いない。少しでもお役に立てる私たちでありたいと祈りつつ、2020年の早春、静かに歩み出す。(もり)

 


毎回ではありませんが、土曜日の会でタイミング合えばして頂ける「ハンドタッチケア」のひとこま 2019年12月に撮影
毎回ではありませんが、土曜日の会でタイミング合えばして頂ける「ハンドタッチケア」のひとこま 2019年12月に撮影

      2020年2月23日

【窓】『ちょっと一息 休もう屋 じわり手応え』

 

昨年9月から始まった「ちょっと一息 休もう屋」。始まってからはや半年ということになる。まだご覧の方で関心のある方はぜひClickして専用ホームページをご覧頂ければと思う。

 

2月19日(水)の「休もう屋」は、スタッフ(ボランティアは少しゆるやかに繋がっている方とこの会では定義しています)以外に、なんやかやで5名の方がリピーターとして来会された。他に、倉敷からの新来会も1名お出でくださった。

 

これはわたし的には予想を超えるにぎわい、ということになる。開店前は、「きょうはお一人も来られないのではないか」とすら予想していたからである。

 

念のために申し上げると、一般の喫茶店のようなイメージの場とは異なるため、ある意味、程ほどの来会が望ましいと今のところ考えている。

 

リピーターの内のお一人は、4月から岡山大学の「大学院ヘルスシステム統合科学研究科」に入学される50歳位の方。長年の看護師としての経験を生かしつつ、パートタイマーとして介護の現場で働き、親御さんの寄り添いでも奮闘しておられる。

 

ここで、一行や二行に彼女の日々を簡潔にまとめることなど到底出来ないけれど、超高齢社会の様々な場で見えたり聞こえたりしている〈呻きと闇〉に誠実に真剣に向き合おうとされている頑張り屋さんだなぁ、と私は受けとめている。

 

彼女が繰り返されたのは「(*たとえ認知症の方であれ)役割や使命があるか否かが人を本当の意味で生かす鍵です」ということだった。このことは、人が真に健やかに生きていくための鍵だろうな、という以前からの私の思いとピタリと重なるもの。

 

そのような方の頭の整理やちょっと一息の休息、さらには、大学院での研究に少しでもお役に立つことが出来るならば本当に嬉しいことだと感謝している。

 

「ちょっと一息 休もう屋」。ボチボチ、こつこつ深めて行きたいと祈っている。どんなところなのかな、と読んで興味をもって下さった方は、どうぞ、気軽にご来会を。きっとひと休み出来ることをお約束出来ます。(もり)

 


2020年2月9日(日)双子のちびっ子ちゃんが来てくれたので、礼拝で「まいごのメーコ」の紙芝居を読む森牧師
2020年2月9日(日)双子のちびっ子ちゃんが来てくれたので、礼拝で「まいごのメーコ」の紙芝居を読む森牧師

    2020年2月9日

 【窓】『新潟からの便り』

 

新潟にある○○教会会員の〈Mさん〉からのお便りに驚き、教えられ、励まされた。

 

Mさんは私が新潟県上越市の高田教会・旧新井市(現在の妙高市)の新井教会に仕えていた時に、時々お交わりを頂いていた現在90歳位の男性だ。とりわけ、新井教会の長老・倉俣一夫さんとMさんが親しい交流をもっておられたことも、お交わりを頂く切っ掛けとなっていた方だ。

 

私の証しを読んで(*教団出版局発『主よ、用いてください 召命から献身へ』)下さったことが切っ掛けで、感想ほかを記して下さったお便りを頂いた。

 

とても嬉しいことだったので、返信と共に、こちらの近況がわかるものを同封してお送りしたことで、丁寧なお手紙を下さったのだ。

 

それによれば、〈Mさん〉は6年程前よりヘルペスの後遺症と腰痛で歩行困難があり、教会生活は礼拝に集中しておられるとのこと。

 

そして、毎週の礼拝説教の〈感想・恵み〉をワープロ打ちされ(*タイトルは「主日礼拝参加は、よろこび、そして感謝!」)、「30名程の方に配る働きを、天に召される直前まで継続したいです」とあった。

 

さらに、ご自身の行動範囲が限られるからだろうか。

 

ご家庭に助言者として牧師を招き、「喜び合い、祈り合い、感謝し合える集会」を行っているともあり、信徒の伝道について大いに考えさせられた。

 

主イエス・キリストの僕として生きる目的を明確にもって居られる方は弱くても本当に強い。教えられました。(もり)

 

 


2020年2月2日の雅代さんによる献花です。清楚でうつくしい。本当に有り難いです。
2020年2月2日の雅代さんによる献花です。清楚でうつくしい。本当に有り難いです。

       2020年2月2日

    【窓】『文具店にて』

 

「月末の自由な祈祷会」が始まった先日の木曜日、自由に過ごさせて頂けるとうことで、午前中は未整理だった書類の山の片づけを始めた。

 

午後は、だいぶ多くなってきた葬儀関連のあれこれの管理と、説教の際に時々配布するプリント整理のためのファイルを買いに出かけた。向かったのは、岡山市中区浜2丁目にある〈うさぎや〉さん。

 

目的のものを購入後も店内をぶらついていると、どうしても欲しくなったものが目に入った。それは、もしかすると「説教準備が捗(はかど)るかも知れない」と直感したB6 サイズ一袋(*128㎜×182㎜ )100枚入りの「コクヨ 情報整理カード」だった。

 

直感は幻想に終わるかも知れないのだが、私の心は少し弾んでいた。それは亡き父・誠太郎が、倫理哲学を講じるために使用していたカードによく似ていたからだと思う。

 

その後、父が使用していたカードが袋ごと残っているのを探し出したのだが、どうやら紀伊国屋書店が作っていたものの様子。穴の空いている場所がほんの少し違うが、ほぼ同じようなものだったことがわかった。

 

さらに追記。2月2日(日)の説教の準備にさっそく「コクヨ 情報整理カード」を使ってみた。結果は・・・皆さんに影響するような変化は多分なかったのでは、と思う。いつもながら原稿を見ることは殆どなかったのだから。

 

ただ、もしも保存しておくとしたら、それなりに有効かも知れません。それにしても、文具店は誘惑の多い場所のような気がする。よい子があれこれ欲しくなりますから。(もり)

 

 


文中の「ちょっと一息 休もう屋」では毎回解散前、かるーく体操をしています。2019年末のひとこまです。
文中の「ちょっと一息 休もう屋」では毎回解散前、かるーく体操をしています。2019年末のひとこまです。

    2020年1月19日
【窓】『あなたは何が楽しいですか』


1/16(木)の朝届いていたメールに「お早うございます。昨日はほんとに楽しい時間をありがとうございます。ほんとに皆さん、どっかでつながってるのですね。感謝です。」とあった。

 

〈ほんとに〉が自然に2度繰り返される所に、メールを下さった方の率直な実感がこもっている。

 

「昨日」とあるが、昨日何があったのかと言うと、昨秋から始めた「ちょっと一息 休もう屋」が行われたのだった。

 

スマートフォンで旭東教会を検索されて初来会のご婦人も交え、七名でテーブルを囲み、1時間半程、美味しくお茶を飲みながらゆったりとお話した。

 

メールはそこに参加しておられた方からのもの。

 

あの「ちょっと一息 休もう屋」の時間、どこにでもありそうで、どこにも無いひと時だった。もちろん、普通の喫茶店では起こり得ない時間だし、礼拝後のお茶の時間、あるいは、祈祷会でもないと思う。

 

二ヵ月に一度の「グリーフケアの集い」を行っている時にもふと感じることだが、旭東教会のサイドメニューのような交わりの中に、大事にしていくといいだろうな、というものがちらほらと見えるのである。

 

ここも神の御国なり。(もり)

 


画家 布下満さんの作品より
画家 布下満さんの作品より

       2020年1月12日
  【窓】『クリスチャンの矜持(きょうじ)』


『昭和の正月が懐かしい』という投稿が毎日新聞の朝刊にあった。

 

昭和のど真中を生きて来た私は、たこ揚げをし(正月だけではない時にもしばしば)、こまを回す子どもだった。お屠蘇を元旦に味わっていたのも二十歳過ぎ迄である。

 

九州大分県大分市の外れの田舎の村で〈パッチン〉と子どもたちは呼んでいた〈めんこ〉をしている子供の姿は、考えて見ると、もう、何十年も見ていない。〈めんこ〉なんてもはや存在しないのだろうか。

 

同じ日の社会部編集委員(滝野隆浩氏)のコラムの題は『令和の葬送も変わる』だった。

 

「平成期は葬送が劇変」と進み、「少子高齢化が進み地域のつながりが薄れ、葬送の変化は必然だった」と繋ぎ、「会社の総務課が葬儀から手を引き」、「社会儀礼だった葬儀が〈自分事に〉」と記している。

 

なるほど、そういう視点で見るのか、と教えられ気付くことがある

 

我々の周辺でも葬儀の変化は著しい。葬儀専用ホームページを創りだした頃に、あれこれと相談した葬儀会社の社長さん、営業部長、支配人さんたちも、「これまでの10年、葬儀は劇変しました。そしてこれからの10年も変わります」と言われていた。

 

中でも、団塊の世代ジュニアが自分たちの親を見送り始める時に、これまでとは違った価値観で葬儀に向き合い始めるだろう、ということでは一致していたと思う。

 

葬儀のみならずだが、何事にも変化は必要だろう。

 

だが、キリスト者である私たちには、広い意味での共同体性を大切にする使命があるように思えてならない。その使命を担うための努力はコツコツと続けたい。(もり)

 

 


2019年12月28日(土)結婚式直前のリハーサルです 於;旭東教会礼拝堂
2019年12月28日(土)結婚式直前のリハーサルです 於;旭東教会礼拝堂

    2019年12月29日

【窓】『 来る年2020年に向けてふと思うこと 』

 

旭東教会の表通りの掲示板。

 

そこには、限られたスペースの中で、幾つもの情報を掲げている。

 

しかし、教会の方々は、逆方向から歩いて来られる方も少なくないこと。あるいは、最新の情報が掲載されているというわけでもないため、通り過ぎるばかりだったり見過ごしている方も多いと思う。

 

**************

 

その掲示板。

 

ホームページの「今週の3枚!」のもっとも下の方に、ここ数年置いたままにしているのでいつでも確認が出来る。

 

その掲示板の一番下には「たのしいホームページあります! きょくとう教会で検索 」とあり、そのもう一段上には「結婚式はぜひ当教会で! *クリスチャンでなくても安心してご相談を」と掲げている。

 

12月28日(土)、実は、5年前に私が北海道の稚内教会から転任・着任して以来、旭東教会の礼拝堂では初めてとなる結婚式を行った。いろいろな巡り合わせや時代の移り変わりがあるので一概には言えないが、かつて、新潟県上越市内の教会に仕えていた頃は、かなりのカップルの結婚式を礼拝堂で行った。

 

教会外の施設を利用しての結婚式は、昨秋、教会のメンバーの〈たかしさん〉たちがご結婚なさった際に司式をしたのだが、教会の礼拝堂を使用して、という方は旭東教会としても久しぶりだろうと思う。

 

今回は、私の以前からお知り合いのお母さまのご子息とお嫁さんの結婚式で大変嬉しいことだった。

 

新郎新婦の衣装を準備された倉敷方面のお店のスタッフの方(KYウェディングクラブさん 倉敷市山地1386-1、℡086-464-6655)との出会いもあった。

 

チーフマネージャーのその方は、「こちらは、どなたでも結婚式が出来るんですか?お店に来られる方で、岡山でどこか結婚式ができるいいところ(様々な意味があると当然思うが)ありませんか、と訊ねられる方があるんです」とお話下さった。

 

これは、もしかすると、よい出会いかなと思い、大急ぎで名刺をもってきて差し上げたりもした次第である。

 

**************

 

ところで、我々にとってもっと現実味のあるお葬儀の方はどうか。

 

この5年の間に、教会員以外で、かつ外のホール使用も含めれば12月迄に○△名の方(二桁です)を教会員の方や初めて出会うご家族と共にお見送りした。

 

今年の夏にはおそらく教会としては日本初と思う「葬儀専用ホームページ」も作成済なのはご承知の通りだろう。先頃も、103歳のお母さまもお送りするご家族の葬儀をお引き受けし、不思議な導きを実感している。

 

**************

 

もしかすると、そろそろ、限られたスペースのおもて通りの掲示板の有効利用のためには、〈結婚式〉よりも「葬儀」や「墓苑」、そして「納骨堂」の案内が必要かも知れない。

 

だとすると、その内容は

 

★〈葬儀 ご相談下さい〉会員以外の葬儀をお引き受けしています。先ずはお電話を!

 

だろうか。そしてまた、

 

★〈車で7分 教会の「納骨堂」ございます どなたもご相談下さい〉※宗派を問わない墓苑に空き区画あり。ここから車で7分!

かも知れない。

 

**************

 

こんなことを思い巡らすのも、ひとえに福音宣教、福音伝道のために他ならない。

 

使徒パウロは「福音のためなら、私はどんなことでもします。それは、私が福音に共にあずかる者となるためです」(第一コリント書 9章23節)と語っている。実際そのように生きたと思う。

 

そのような四苦八苦、或いは、額に汗しながらの足を使う努力を、私たちは来る年2020年に、どのように共に深めて行けるのだろう。(もり)

 


12月18日(水)におこなった「水曜 ちょっと一息 休もう屋」に、スタッフの明子さんがご自宅から届けて下さった色鮮やかなユズとたかのつめ。皆さんで分け合った後の写真です。
12月18日(水)におこなった「水曜 ちょっと一息 休もう屋」に、スタッフの明子さんがご自宅から届けて下さった色鮮やかなユズとたかのつめ。皆さんで分け合った後の写真です。

   【窓】『103歳のT子さんを送る』

 

先週本欄でご報告した「T子さん」の告別式を12/11(水)の朝9時から、旭東教会の礼拝堂で執り行った。

 

私が司式をさせて頂いたので、当然のことながら一生懸命に仕えさせて頂いた。だからというわけではないが、確かな温もりを感じる、ご葬儀となって本当によかった。

 

T子さんに30年近く前に洗礼を授けられたのは名古屋駅から程近いところにある、愛隣教会牧師・南尚浩先生だ。

 

不思議なことに、かつて岡山に居られた南牧師は現在も岡山刑務所の教誨師(きょうかいし)をなさっていて、前夜の納棺式の直前まで、岡山刑務所での教誨のお仕事で岡山入りしておられた。

 

これは神さまの導き、と感じつつ、私はJR東岡山駅まで自家用車で迎えに行き、初めてお目に掛かり、そして旭東教会へとご案内した。そして、納棺式に立ち会いをお願いしてお祈りして下さった。準備していた「312 いつくしみ深き」は南牧師が「T子さんの愛唱です」と言って下さりこれまた感謝。

 

その後、ご子息のsさんと共に、懐かしい話、今日のめぐみ、これからのこと等々、南牧師の目覚ましいお働きに聴き入り、奇跡としか思えない30歳位の青年の「before・after」のお写真を見せて頂いたりした。

 

南先生が愛隣教会でのお働きを活発にご紹介くださるうちに、それでは私も、と身を乗り出してお伝えしたのが、T子さんの葬儀をお引き受けするに至った切っ掛けである、「葬儀専用ホームページ」の存在だった。

 

夏に開設した葬儀専用ホームページ。HPの構造の都合で来会者カウンターが設置出来ない。そのため、どれくらいの方が観に来て下さっているか数値でもわからないし、どちらの、どなたがご覧になっているか、自信がないというか不明なままだったのだ。

 

しかし、お母さまの葬儀の相談を下さったsさん宅の食卓には、間違いなく、葬儀専用ホームページをそのままプリントアウトしたものが置かれていた。あー、ご覧になっている方は間違いなく居られるのだと思い、としみじみと嬉しかった。

 

そこまでの導きを、南牧師にお伝えすると、「sちゃん、神さましかないんだよ、ほらぁ」と素朴な言葉でお伝え下さったりして、あっという間に時が流れていったのだった。

 

12/11(水)の告別式当日の朝8時20分頃、旭東教会の方に一人でも列席頂くといいなぁと考えた私。教会まで直線距離で300㍍の正さんに電話すると即答で了解くださり、駆けつけて下さった。

 

開式時間近くに牧師館から準備を整えて礼拝堂に行くとなんだか様子がおかしい。ご子息のsさんは「50年前(お母さまが53歳頃のこと)母が父を天に送り、母と私と四畳半のアパートでの暮らしが始まり、最も困窮していた時代に、(正さんが院長をされていた)栗原医院で働いていました」と仰るではないか。

 

神様のご計画に驚くばかりだった。

 

告別式は、ご子息のsさんと私たち夫婦、正さん、ケアマネジャーさんと少人数だったが、神の御手に守られた光を感じる澄んだ時となった。葬儀専用ホームページを開設した当初願っていたことが、いつしか、成就していたことに、今気付かされて驚いている。感謝。(もり)


12/8 兼務する十文字平和教会の庭にて 冬の山わらび 治生さん撮影
12/8 兼務する十文字平和教会の庭にて 冬の山わらび 治生さん撮影

【窓】『大正5年(*1916年)生まれのT子さん』


103歳のご婦人の手をとって、ご家族とともにお祈りする機会を頂いた。12月3日(火)の午後のことである。

 

67歳のクリスチャンのご子息・Sさんが、人生の最期の時をご自宅で迎えようとしているお母さまの〈葬儀〉について相談を下さったのだ。

 

旭東教会から車で15分程のところにあるお宅に伺うと、食卓には「旭東教会の葬儀専用ホームページの印刷物が目に入った。

 

「あー、確かにご覧下さっている方がここに居られたのだ」と実感。

 

様々なご事情があり、ご一家が信頼する東海方面の教会の牧師(かつて岡山市内の教会に仕えられた)より「森先生、よろしくお願い致します」とのお声掛けを先に頂いている。

 

偶然か、否、神さまのお導きだろう。在宅医療を行っているのは、いつも私が掛かり付け医として診て頂いているドクターが居られる診療所だ。心強い。何かしらの地域の連携が感じられて感謝だった。

 

T子さんは重いご病気というわけではない。時が満ちて静かにこの世の旅路を終えられようとしている。

 

あれこれのご相談を受けたのち、帰り際、リビングダイニングのお部屋の窓辺に休まれているT子さんのお布団をめくり重ねさせて頂いた手は本当に優しく美しかった。

 

一日でも長生きして頂きたいと祈っている。(もり)

 

 


この度発刊された画集『布下満 続・画集 絵を描いて60年 あ・し・あ・と』を手にされる布下満さんです。ぜひ、絵画展へお出かけを!
この度発刊された画集『布下満 続・画集 絵を描いて60年 あ・し・あ・と』を手にされる布下満さんです。ぜひ、絵画展へお出かけを!

                           2019年10月27日
                     【窓】『画家と牧師と』

 

先週の10月20日(日)の夕方、十文字平和教会の礼拝後のお茶の時、11月2日(土)~11月10日(日)迄、総社市の備中国分寺五重塔のすぐ近く、吉備路文化会館で絵画の個展を開催される布下満さんの言葉が腑にストンと落ちた。

 

一度、満さんにお聴きしたい、と思っていたことを質問した時の言葉である。

 

「絵は観る人それぞれが、ある意味勝ってきままに鑑賞し、何かを感じていると思うのですが、画家の思いや伝えたいことと焦点が違って受け取られませんか?」と私。

 

「絵というものは、観て下さる人が居て、そこで初めて完成するんです。自由でいいんですわ」と満さん。幼い頃から80歳を超える今に至るまで、特に、絵描きとして生きていくことを志して以来60数年、筆を持たないこと、何も描かない日など考えられないという満さんの言葉には説得力があった。

 

牧師の説教も似た所があると私は以前から感じてはいた。牧師の口を通して発せられる神の言は、聴き手が自由に解釈するもので、一番のポイントはここと幾ら思っていても、そうは受け取られないことが普通のことだからだ。

 

だがしかし、満さんが言われた「完成」とまでは説教の際には考えることが出来ていなかった。そうか!説教は教会の皆(みんな)と一つになってこそ紡がれ、完成するものなのだ。

 

完成原稿を最近は手にすることはほぼないのだが、「よし、出来たぞ」と思った説教は、実はまだ、完成していないということになる。(もり)

 

※布下満 プロフィール
1937年生まれ、中学・短大で美術教化を担当。2001年に退職後は、絵画制作を中心とし、農耕と地域文化活動に参加。生涯学習を楽しんでおられる。

 

 


ちょっと一息 休もう屋 開店初日(9/18)解散前の体操タイムに
ちょっと一息 休もう屋 開店初日(9/18)解散前の体操タイムに

     2019年9月22日
      【窓】

『 新しい一歩

  ちょっと一息 休もう屋に寄せて』

 

9月17日(火)の夜は寝付けないまま時が流れた。喉が渇き、台所に水を飲みに行った時に壁掛け時計を見ると午前3時。数時間の睡眠を経て18日(水)の朝を迎えた。

 

疲れているはずなのに、少し興奮気味で眠りに入れなかったのは「ちょっと一息 休もう屋」が始まる前夜だったのかも知れないな、とあとで気付いた。

 

「ちょっと一息 休もう屋」は、毎月第3水曜日と第4土曜日に開店することに決まったが、開店第一日目の3時間前、直線距離で100㍍の〈西大寺ふれあいセンター〉を訪ねてみた。

 

受付で「館長さんにご挨拶したいのですが」と伝えると奥からひとりの女性が近づいて来られた。チラシと冊子、そして名刺をお渡し、「かくかくしかじかで、元職員の方が一同相談してみてはと助言下さり・・・・・・いつか、何かの形でご一緒できれば」と伝えた。

 

最初は〈無料でご招待〉とご案内すればよかったと後で後悔。もしかすると、初回サービス券の配布などは、有効なアピールになるのかも知れない。

 

翌日、何と嬉しいことに、館長さんから電話が入った。

 

「昨日の件、あれからスタッフといろいろと相談して・・・こんなことなら、費用も掛からず出来るかも知れません」の声掛けを下さった。「ふれあいセンターのスタッフ派遣はどんな形であれ5千円の費用が掛かるけれど、ボランティアで体操を教えたいというグループがありまよ」と仰るではないか。

 

その他にも、道路をはさんで向かいの、西大寺中郵便局の局長を訪ねてチラシを手渡したり、いつもフル回転でご活躍の光明園家族教会のNさんに「祈祷会の帰りにどうですか」と電話したりした。

 

地域に根差す何かの働きをみんなで工夫しながら盛りあげて行きたい。(もり)

 

※「ちょっと一息 休もう屋」専用ホームページは以下です。ぜひ、Clickしてお訪ねを。
  http://yasumouya-okayama.jimdosite.com

 


2019/9/15(日)兼務する十文字平和教会の講壇にて
2019/9/15(日)兼務する十文字平和教会の講壇にて

    2019年9月15日
【窓】『〈信仰の父〉から今学ぶ 』

 

東京での研修会に参加の折、久し振りに母教会の日本基督教団 銀座教会に立ち寄ったことが切っ掛けで、故・鵜飼勇牧師(銀座教会牧師、1956年~1998年迄在任)の奥さま鵜飼栄子夫人が記されたご著書・『微笑みをつないで 教会と共に90年』(教文館)を贈って頂いた。

 

お世話になった栄子先生のご本を読んでいて驚いたことがある。

 

いつも凜(りん)とされ、少しもお身体が弱そうには見えなかった鵜飼牧師である。もちろん、時には病院に行かれる様子も見聞きしてはいた。

 

が、鵜飼牧師ご自身は栄子夫人に対して「僕は体が弱いからね」という意味の言葉を時に口しておられた、とあるではないか。

 

丁寧に読んでいると、戦後のお若い頃に、私の父・誠太郎と同じ肋膜(ろくまく)を患っていたという。露ほども知らなかった。

 

パイプオルガンの奏者としての研鑽を積むためにドイツに留学されご結婚されてお子さんまで与えられていたご長女との別れについても触れられ、そこから導かれたことも率直に明らかにされていることも重ね重ね驚いた。

 

公に販売されているご本に記されていることなので、少し引用させて頂くが、ご長女が、人間の罪深い現実を突きつけられて不審のどん底に突き落とされ、心が病んで行ったこと。

 

そして、日本を離れて十六年目、数え切れないほどの重荷と寂しさの限りの中で神に助けを求めながら苦しみ、ついにはご自身で地上の生涯の終わりを選ばれ、永遠の旅路へと去られたことまでも綴られている。

 

「・・・・・・が亡くなりました」との電話を受けられた鵜飼牧師夫妻は、しばらく言葉を失い涙もなく座り続ける。

 

そして、その夜中、鵜飼牧師は「栄子、祈ろう」と言い「この切り裂かれた苦しみ、悲しみ、寂しさを今まで多くの教会員が味わっていたのを私達は知らなかった」と牧師としての悔い改めの祈りが続いたそうだ。

 

「悔い改め」は、主イエス・キリストがそのご生涯の初めに宣言されたお言葉である。そして、私自身、伝道者として歩みだしてから、いつも立ち帰らされ考えさせられている重要なテーマである。

 

マルコによる福音書1章14節以下にイエスさまの宣言が記される。

 

「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」と。

 

悔い改めが、伝道者・牧会者の生涯の中でどのようにして起こるのか。あるいは、悔い改めをどのように言葉にして行くことが出来るのか。この度は、全く新しい視点から「悔い改め」を生きる道が示されたように感じている。

 

心して歩みたい。(もり)

 

 


文中でご紹介の画家〈布下満さん〉11月に記念絵画展を総社市で開催
文中でご紹介の画家〈布下満さん〉11月に記念絵画展を総社市で開催

        2019年9月8日

    【窓】『目の前におられた画家』

皆さんは人生の途上で本物の画家と出会っておられるだろうか。

 

旭東教会では手作り創作紙芝居の上演(フランダースの犬、くつやのマルチン他 40年程前の作品)で知られているかも知れない十文字平和教会の布下満さん82歳から、155頁に及ぶ『続・画集 絵を描いて60年 あ・し・あ・と』を教会に頂いた。「随筆」・「年譜」付で本当にみていて飽きない。

 

以前、私の愚問に答えられた満さんが「筆を持たない日など考えられません。毎日何か描いとります」と仰ったことを思い出しながら魅(み)せて頂いている。

 

故・戸村政博牧師が『路上の生 山谷から』(日本キリスト教団出版局)の「後書き」でこう記されている。

 

「“説教者”とは、たんなる職名ではなく、したがって単に説教する者が説教者であるのではない。説教の巧みなもの、それが説教者であるのではない。説教せざるを得ないように召されている者、わたしはそうせずにはおれない(第1コリント9:16)というアナンケーを持つ者が、説教者である。例えて言うならば、詩をつくる人が詩人ではない。作品やその評価によって人は詩人になるのではない。詩を作るほか生きようがない者として自分を自覚する者が詩人である」という言葉を想う。

 

これは、私が旭東教会の就任式で引用させて頂いた言葉である。

 

私は、そしてあなたは、果たして今、何者であるのだろうか。私は説教せずには居れない者として生きているか。そうであればその努力を続け、まだ足りなければ、いっそう励みたい。(もり)

 

 



Dさんの告別式が行われた十文字平和教会礼拝堂
Dさんの告別式が行われた十文字平和教会礼拝堂

     2019年8月18日

       【窓】

   『 火葬場の帰り道に 』


8/11(日)朝10時過ぎ、兼務する十文字平和教会のFさんから「大変なことが起こりました。アパーで独り暮しのDさん73歳が召天」との電話。

 

他にも重なることがあり、礼拝から夜中まで、怒濤のような慌ただしい日曜日が始まった。

 

旭東教会の役員会の日程などが重なり、総社に向かったのは午後7時過ぎていたと思う。夜10時近くにある施設を出て葬儀社に岡山市北区の葬儀社での打ち合わせが始まった。会計役員のHさんも同行して下さった。

 

8/13(水)午前11時。十文字平和教会での葬儀はいつもの礼拝のときのように会員の君枝さんが白色と紫色を基調とした清楚なお花。遺影はほぼ一年前の8月の誕生会でのDさんらしい穏やかな笑顔の一枚をデータのファイルに探し当てて使うことが出来た。

 

三ヶ月前にまとまったばかりの教会員への愛唱賛美歌のアンケートから、「いつくしみ深い」「ああ主のひとみ」「主よ、終わりまで」をどれも歌詞をかみ締めて賛美した。いずれも、Dさんの信仰の歩みにピタリと重なることがうかがわれて、たぶん、忘れることが出来ない選曲となったと思う。

 

もちろん、聖句もお知らせ頂いていたので、開式に用いた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マタイ22章37節)だった。

 

総社市斎場でのお骨上げは「神の家族」である教会の皆さんで行った。暑い暑い夏の午後だった。

 

帰りの車中、会員の大工さんの敏久さんが開口一番こう言われた。

 

「Dさんに教会があって本当によかったですねぇ」

 

私は「ほんとに(アーメン)」とうんうんと深く肯(うなず)いた。

 

           **************

 

ちなみに、8/18(日)の十文字平和教会の『週報』にはこう記した。

 

【想い出は満さん、治生さん、房子さんが思いを込めて語られました。近年のDさんは、教会で礼拝の奏楽を担当され、「ヒムプレーヤー」の操作を毎週欠かさず続けて下さいました。告別式ではコヘレトの言葉3章とマルコ福音書11章が読まれ、主イエスが十字架の待つエルサレム入城の際に必要とされたのは「ちいろば」であり、その「ちいろば」はDさんだったことを森牧師は語りました。また、Dさんにとって十文字平和教会は本当になくてはならないものだったのであり、十文字平和教会にとっても、Dさんは居て下さらなければならない掛け替えのない存在であったことを分かち合いました。】

 

(もり)


2019年8月2日(金) とあるところで撮影した、新潟県長岡市の世界に誇る2019年の壮大な花火 絵ではありません
2019年8月2日(金) とあるところで撮影した、新潟県長岡市の世界に誇る2019年の壮大な花火 絵ではありません

    2019年8月4日
【窓】『50年前の夏の落ちない話 』


大分県の大分市、現在の大在地区で育った私の子どもの頃、6人家族の森家全員が集合するのは夕食の時間だった。6人は、冬は掘りごたつとして使う食卓に足を伸ばして囲んでいた。

 

夏になると、薄青色の網戸にはカナブン、テントウムシ、細身のイトトンボがいつも居た。

 

考えて見ると、その頃(もしかすると、私の周囲だけだろうか)、冷房・エアコンなどという言葉はなかったと思う。涼を感じるのは、網戸を時に抜けていく風、そして、うちわだった。

 

一家に一台の扇風機は、家長のおじいちゃんを中心に廻っていて、孫の私の所には風は届かなかった。

私は扇風機に「あーーっ」と声を出して遊び、父が飲む由緒正しいキリンのビンビールの泡を口にしてはしゃいでいた。

 

夏はナスの味噌汁が多く、油揚げと豆腐のみそ汁が出ると心が弾んだ。

 

散髪に行くと、髪の赤かった私は、江村理容店のコワーイおじさんに「言ちゃん、ワカメを食べんから髪が赤くなるんでぇ」と言われていたので、みそ汁のワカメを見ると、江村のおじさんの顔がいつもセットで思い出された。

 

母はおそらく気分転換というか祖母とのあつれきを少しでも癒すために、畑によく出ていた。そこで獲れたキュウリとナスの漬物に励んでいたが、味の素と醤油をたっぷりかけていた。

 

そうそう、残飯は、庭に穴を掘って埋めていた。

 

夏みかんジュースは生半可な酸っぱさではなく、飛び上がるほどだったのも懐かしい想い出である。(もり)

 



きくちゃんが愛し大切にしていた、昭和35年製のミヤタ自転車
きくちゃんが愛し大切にしていた、昭和35年製のミヤタ自転車

    2019年6月30日

【窓】『きくちゃんを天に送る』

 

喜久恵さんが96歳(「季具枝」はペンネームでした)9ヶ月で召された。

 

告別式の前夜、ご長男の奥さまと2人のお孫さん(女性達)と、教会での告別式を前に、葬儀でお世話になっているホールの一室で、その足跡を辿りながら語らう有難い時間を持った。

 

30分程の予定が、あっという間に一時間半程が過ぎた。ちなみに、ご長男は体調がすぐれずお式にもお出でになれなくてお辛かったと思う。

 

三人に、「最後にひと言で、きくちゃんはどんな人でしたか?」と尋ねると「母には全部負けます。競争する必要はないのですが」とお嫁さん。ご自身の結婚式の際にはウェディングドレスを縫ってくれたことも聞いた。

 

お孫さん方は「おばあちゃんはキャリアウーマンだと思ってました」「世の普通のおばあちゃんとは全く違う人」と声を揃えた。きくちゃんは喫茶店を切り盛りした方であり、お料理教室の先生もし、帽子作りの店もなさり、お洋服を創ることが出来た人だった。

 

三人はその日の別れ際に「あー、楽しかった」と言ってくださった。四年前にきくちゃんから昔話を聴いていて、パソコン入力してメモをしていたことが大いに生かされてよかった。

 

2009年イースターの受洗時に「実家に里帰りでもするよう・・・」と証しされた喜久恵さん。よく通る声が、これからも、どこからか聞こえてきそうだと思っていたら、教会員のある方も同じようにおっしゃった。

 

実は、召されて行く日の前夜、思いがけない形できくちゃんは私の前に現れていた。「せんせぇ、もう、ええなぁ」と言いに来て下さったのだと信じている。

 

ありがとうきくちゃん。西大寺の可愛らしい「野の花」でした。(もり)

 


2019/4/28  復活節第二主日の講壇献花より
2019/4/28 復活節第二主日の講壇献花より

 ◎2019年4月28日

『 福音の〈使徒K〉の言葉 』

   【窓・209号】

 

はじめに
〈使徒K〉とは〈使徒パウロ〉と同じような意味でここに記している。

 

**************

 

過日、次のような文面の手紙を下さっていた、昭和2年1月1日生まれのKさんが召された、という知らせが届いた。Kさんは92歳だった。ご本人もご家族も、もしかして100歳までは大丈夫、と思っていたはずなので、驚いた。

 

実はわたしの父の誕生日がKさんと同じ昭和2年4月1日なので、いつも、あー、オヤジと同じ歳なんだよなぁ、と思い巡らすことができる貴重な存在だった。父は、わたしと違って160㌢もない小柄な人だったが、Kさんは更に小柄な方だったのだ。

 

かつてわたしは新井教会に兼務者として仕えていたのだが、Kさの所には、一升瓶を抱えて謝りに行ったこともあるし、どうやらコワイ先生、と思われていたふしもある。身長の差があまりに大きいので、Kさんは見下ろされている、或いは、見上げている感が強かったことも大いに影響しているかも知れない。

 

Kさんは、新潟県の豪雪地帯のひとつ新井という町(信州・長野県寄り)の小さな新井教会(*現在礼拝出席4名~6名ほど)の〈教会守〉と呼ぶに相応しい方だった。〈教会守〉はどこにでもいそうで居ないものだと思う。本当に平日の教会に足繁く通って下さっていたことを知っている。

 

Kさんは、時折、元気な万年筆で記された手紙で私を励まして下さっていた方だ。これもまた、少し、父と似たところがある。父はいつも万年筆を使っていた。

 

例えばKさんは、こんなことを記して下さっていた。

 

「み言葉”余滴”を読み創めて今日は「終末を見つめる生き方」(№19)です。どの一枚を手にしても余滴は短文にして明解、親しく読みやすく、読むほどに心捕らえる名文です。感謝致します。・・・・・・み言葉”余滴”は、本にして出版されたらキリスト教伝道に大きな力になることを確信しつつ感謝して読み続けて参ります。本当にありがとうございました。」(*2017年7月1日付)

 

思わず、本気でそうかなぁ、と思いそうになってしまうくらい、勇気づけられる言葉だった。

 

そして、毎週、だいぶ努力して記している『み言葉"余滴"』に込めているわたしの思いを、殆どすべてくみ取って下さっている、数少ない方の一人だったのだ。

 

2007年7月15日に無事に終わった、新井教会の会堂改装・補修工事は、全国289教会と1団体、そして、228名の方々と共に、主のみ業に仕えさせて頂いた、思いで深い取り組みだった。年間予算の4倍位の規模の工事だったので、現在の旭東教会に当てはめると、その工事の大きさが推測できる。

 

手元にある、その工事の感謝報告書の表紙の写真は、Kさんが朝早くにシャッターチャンスを狙いに狙って撮影してくださったもので、新井教会の誇らしさが溢れていて見る度に惚れ惚れする。

 

同時にまた、裏表紙は、2006年1月の豪雪時に撮影したもので、雪に埋もれる会堂、そして後ろに青空が広がる、それはそれは美しい写真で、全国募金を始めようとした時に用いたものだった。Kさんが愛してやまなかった新井という町を象徴するような美しさが感じられる。

 

写真好きのKさんにとって、生涯に於ける傑作の二枚ではなかったか、と推察している。

 

お世辞を聞いたことのない〈使徒Kさん〉の言葉に支えられ、今週「み言葉"余滴"」は200号を迎えた。(もり)

 

 


2019年3月10日・受難節・レント第1主日の講壇
2019年3月10日・受難節・レント第1主日の講壇

   ◎2018月3月10 ・【 窓 203号

       『  あれは元年だった 』

 

1989年の早春、山手線巣鴨駅から徒歩7分の所にあった勤め先から六畳一間のアパートに帰ると、赤鉛筆を片手に必死になって読んでいた本があった。故・清水恵三先生著『イエスさまのたとえ話』だった。

 

夜間の神学校である日本聖書神学校への入学を志した私は、事務局で進められたのか、神学校で出会った福永先輩から教えられたのか、「過去問」を購入した。

 

おそるおそる過去問を開いてみると、新約聖書の試験には、「イエスの譬え」がかなり高い確率で出ることを知った。これは学ぶしかない、と思い、とある日曜日の午後、東京・銀座にある〈教文館〉というキリスト教書店に乗り込んだ(というか、不安げな顔で立ち寄った)。

 

おそらく、何時間も迷い悩んだ末、独習でも、辛うじてわかるような気がして購入した本が『イエスさまのたとえ話』と思う。

 

2年前の5月、教会の祈祷会での学びが『詩編』だけでは不足と考えた私。月に一度の割りで皆さんと読み始め、先日、めでたく読了した。

 

それにしても、『イエスさまのたとえ話』が、今でも自分には丁度良い、と感じるのは、いったい何を意味しているのだろう。

 

5月から元号が変わるが、献身後30年の時が流れている自分にふと気付いた。(もり)

 

 


◎2018月3月3 ・【 窓 202号

     『  落語と牧師と 』

 

休暇を頂き車で大阪へ。

 

コンビニのおにぎりをほおばりながら、上方落語の昼席公演を目指して、「天満天神繁昌亭(てんまてんじん はんじょうてい)」に滑り込んだ。

 

晩年クリスチャンになられたことで知られる、上方落語協会会長も務められた、〈露の五郎兵衛さん〉の直弟子と言われた、〈露の団六さん〉の噺も聴けた。

 

「あんたぁ、まだ、教会いってんのぉ」・「イエス」。

 

「あんたこそぉ、相変わらず仏(ぶつ)かいな」・「ほっとけー」。

 

ちなみに、露の五郎兵衛さんのキリスト者としての歩みは、『五郎は生涯未完成 ―芸と病気とイエスさま―』(発行:マナブックス、販売:いのちのことば社)に詳しい。わたしの大切な一冊だ。

 

**************

 

前半のトリでは、一年前に同じ場所で惚れ惚れと聴き入り、その存在を知った、私と同い年の〈笑福亭松喬(しょきょう)さん〉だった。

 

私にとっては、偶然とは思えぬ再会。

 

当時は、松喬襲名前の〈三喬〉さんだったが、以来、ABCラジオなどの番組で声を聴く度に、相当な勉強家であり実力者だと気付いた次第だった。

 

〈松喬さん〉、この度は『転宅』という演目を演じられた。

 

東京の噺家は「お妾さん」と言い換える「お手掛けさん」と「盗人(ぬすっと)」のやり取りを、ほのかな色気、とろろ汁のお椀をきゅーっと口に運んで聴衆の腹を空かせる芸ををきっちり30分。

 

まるで目の前に映画の情景が広がるようで、数日経った今でも、その場面が思い浮かぶのだから芸の奥深さに頭がさがるばかりだ。

 

講壇から語る牧師の説教もかくあるべし、と思う。(もり)


2/10 (日)に森牧師が兼務する十文字平和教会の満さんがやって来て、紙芝居を上演してくれます。今年で三回目。「くつやのマルチン」をファミリー礼拝でたのしみます(^^♪
2/10 (日)に森牧師が兼務する十文字平和教会の満さんがやって来て、紙芝居を上演してくれます。今年で三回目。「くつやのマルチン」をファミリー礼拝でたのしみます(^^♪

 ◎2018月1月20 ・【 窓 197号

    『 語ることの秘義 』

 

今週の題『語ることの秘義』は、正直なところ、なんとも格好良すぎなものだと思っている。

 

実はこれ、最近、偶然手にしていたく感動した『キリスト教図書総目録 2014年版』の「25周年記念号 巻頭エッセイ」のひとつ、若松栄輔さんの『読むことの秘義』の“もじり"である。

 

そこではCSルイスの代表作のひとつ『痛みの問題』(新教出版社刊)の前書きの最後の一行が引用されている。

 

わたしの【窓】欄の短文とどれほど関係があるかと言うと、表面的には一切無し、というのが実情である。

 

ただし、2019年1月20日の使徒言行録からの礼拝説教『手引きするのは誰ですか』には、根っこの所でだいぶ関係あり、と私的には考えているのだからややこしい。

 

若松さんが引用されたCSルイスの言葉をちょっと紹介しておこう。ルイスは1898年に生まれ、1963年に召されていった英国の小説家・英文学者で信徒である。あの『ナルニア国ものがたり』の原作者だ。

 

**************

 

ルイスはこう言っている。

 

【神学者には、わたしがどんなものを読んだか――というより、どんなわずかしか読んでいないか、すぐにわかると思います。】

 

それに続けてに、若松さんはこう言われている。

 

【ここにルイスの謙遜を読むのは十分ではない。むしろ、彼の「読む」ことをめぐる、ほとんどゆるがない自負を感じ取るべきなのだろう。・・・・・・彼が願ったのは、多くの言葉に出会うことではなく、魂の奥にとどく、真実のコトバとの邂逅だった。よろこばしき者が来訪するとき、出会いを成就させたいと願うなら、私たちはその場を離れず、静かに佇んでいかなくてはならない。ときに動かないことはもっとも積極的な営みとなる。】

 

以下、週報のミニコラムは、上に引用させて頂いた、若松栄輔さんの言葉やCSルイスの言葉とどれほど関係があるかと言うと、〈ない〉のだけど〈あるのです〉と記しておきたいと思う。

 

**************

 

月に一度、祈祷会で清水恵三先生のご著書を辿りながら、「イエスの譬え話」を学ぶ時間はいつも楽しい。清水先生の丁寧で深い講解にふれると、良い意味での溜め息が最後に出てしまう。

 

ただし、私は清水先生のご本を牧師室で一人孤独?に予習していても、よく分からないことも多く、時間切れで、祈祷会を行っている木曜の朝を迎えてしまうのだ。

 

「こりゃ、ぶっつけ本番だな」というのに近い状況の中、祈祷会の出席者の前で、立ち止まっては解説し、横道にそれているうちに、はたと気付くことが出てくるのだ。そして、やっぱり皆で学ぶというのは素晴らしいことだな、有り難いことだな、学ぶとはこういうことか、といつも思う。

 

先日、朝の祈祷会の時間には見えていなかったことを、夜の祈祷会ではかなり明確に語ることが出来た。

ルカ福音書13章の「イチジクの譬え」で、聖書に文字としては記されていないイエスの言葉が、すくと立ち上がって見えたのだ。

 

それは、「もし、それでもだめなら〈私=イエスを、十字架の上で〉切り倒してください」という主の愛の言葉だった。

 

〈私=イエスを、十字架の上で〉は見えないけれど見え、語るようにと促されたと言うのはオーバーだろうか。

 

わたしの牧師としての〈つとめ〉は、読むこと、聴くこと、触れること、そして、何気ない日常のすべてが統合されて、語ることに結び付いているのだろうなと思う。(もり)

 


2018年11月11日(日)秋のファミリー礼拝を兼ねた子ども祝福礼拝の献花と講壇
2018年11月11日(日)秋のファミリー礼拝を兼ねた子ども祝福礼拝の献花と講壇

 ◎2018月11月11 ・【 窓 187号

  『 2018年 聖徒の日を終えて 』

 

今月、わたしは58歳の誕生日を迎える。

 

わたしの母が亡くなった時の年齢は52歳。7年程の闘病生活を経てのことだった。姉は41歳と更に若い。育ち盛りの男の子をふたり残して無念だったと思う。姉も、母と同じ位の間、病と闘い、計り知れない苦悩があったのだろう。

 

「ついで」と言ってはなんだが、父は70歳で召された。今考えると、みんな早く逝ったのだなぁと気付く。

 

母や姉たちにとって、「もう少しだけ時間を」という思いがあってしかるべきだったことを考えると、「言ちゃん、あなた、わたしたちの分もしっかり頑張りなさい」と言われているような気もする。

 

**************

 

作家の伊集院静(いじゅういん しずか)さんが一年程前、わたしが愛聴している大阪ABCラジオの道上洋三さんの朝の番組にゲスト出演された時にこう言われた。

 

「いつ終わってもいい人生を生きる」

 

それは、さり気なかったけれど、確信をもって語っておられた言葉だった。

 

伊集院さん、本当のことしか書かない、言わない方。そして、誰に対してもぶれない。だからこそ信頼できるなといつも思っている方だ。

 

**************

 

過日、天に召され行った樹木希林さんを追悼する言葉を毎日新聞の〈新・心のサプリ〉に記されていた海原純子(うみはら じゅんこ)さん。

 

「死を見つめ 丁寧に生きる」というエッセイでこう言われる。

 

【先日なくなった樹木希林さん・・・・・・・がんの治療と仕事の他によくここまで丁寧になさっていたなぁ、と感じた。「丁寧に生きる」。その言葉が最もふさわしいと思ったが、その生き方の根底にあるのは、「死をみつめデッドラインに気付く」ことにあったのではないだろうか。】

 

【死を見つめる生き方は、残された時間を十分に活かし生きることを可能にする。〆切というのは、本当に大切だ。・・・・・・人生の〆切を意識してしたいことを明確にしてみると、時間が豊かになるような気がした】

 

*いずれも、2018年10月7日(日)号

 

**************

 

先日、11月8日(木)夜の祈祷会。

 

マタイによる福音書25章14節以下の「タラントンのたとえ」を清水恵三先生のご本をもとに学ぶ時間をもったのだが、その際わたしは、「これが最後の礼拝になるかも知れない、という緊張感は大切ですよね」と語っていた。

 

聖徒の日、信仰の先達達の写真と共に、家族の写真も礼拝堂に置かせて頂いたことは、こんな思いを紡がせてくれたように思う。(もり)

 


「もったいない言葉」をくださった〈M子さん〉を送る
「もったいない言葉」をくださった〈M子さん〉を送る

◎2018月10月21 ・【 窓 184号

 『 もったいない言葉です 』

 

大正13年(*1924年)生まれのM子さん。94歳で天国へ帰られた。〈前夜の祈り〉の後、その時に集うことが出来たお子さん・お孫さん・ひ孫さん計14名と小一時間を過ごした。

 

予想していたよりも遥かに多い方たちが集まられたことで、お話の聴き方を急きょ予定変更。

 

「おばあちゃんの素晴らしいところを、ひと言書き込んで教えてください」と部屋にあったメモ用紙を渡して1分後に回収した。

 

無記名としたので、「これは誰が書かれた言葉かな」と私が読み上げ、手を挙げていただき、少し言葉を添えてお話していただくことを繰り返した。

 

「ファイトばかりの人でした」「何事にも積極的で前向きな人生」とは晩年の30年程をご一緒されたご家族お二人の言葉だった。もうそれだけでも、M子さんという方がどのような生き方をされたのかが浮かび上がる。

 

告別式の朝、式辞の準備をしつつ、あれこれを思い巡らす中で、旭東教会の教会員の方々何名かに「どんな思い出をお持ちですか」と電話して備えた。

 

「厳しくも優しい方でした」

 

「今の私があるのはM子さんの存在」

 

「5分あるとしたら、あと5分しかないではなく、まだ5分あるじゃないと言われる方」

 

「35年前に先にご主人が先に召されました。献体されるということで、ご主人をご自宅から見送られるとき、〈あなたあ、天国で会いましょうねぇ〉とずーっと手を振り続けて居られたのを忘れられません。天国への期待する信仰をしっかりともって居られる方だ思っていました」

 

等のお声を聴けた。

 

いずれも、そのまま式辞で紹介したわけではないけれど、本当の意味での家族葬だったがゆえに、わたしは教会の皆さんの思いを抱きながら葬儀に臨みたかった。

 

晩年、聴力が弱られていたM子さん。耳元で話し掛けてもようやく何かを聴き取られる位だったと思う。それでも、教会備え付けの補聴器を使うことなく礼拝出席を続けられた。当然、わたしは説教が聞こえていないことを知っていた。

 

ある日「いいんですか」と訊ねると「先生の顔が見えればねぇ」とほほ笑まれた。

 

確かに、M子さんは、いつも講壇の方をじいっと見上げたまま、いつもそこに居られたのだ。私も支えて頂きました。ただ感謝あるのみ。(もり)

 

 

 


8月5日(日)の礼拝堂献花です。歴史ある講壇の柱とあいまって今週も素晴らしい。夏ですね。
8月5日(日)の礼拝堂献花です。歴史ある講壇の柱とあいまって今週も素晴らしい。夏ですね。

◎2018月8月5 ・ 【 窓 173号

    『 餃子の王将にて 』

 

時に出掛けることがある〈餃子の王将〉という庶民に味方の中華料理の店がある。

 

東岡山店であるとか、岡山京山店には行くことがあったが、先日の昼、初めて岡山市中区の平井店に入りカウンターに座った。

 

同じ〈王将〉の中でも平井店の店内は格段に綺麗で好印象だ。

 

カウンター越しの2㍍前方には注文を一括采配する店長の後ろ姿。

 

厨房の仕事は細分化され、餃子担当、鍋を振る人、麺類担当等、全体の動きがほぼ丸見えである。

 

皆さん忙しくというか本当に、こんなに忙しくて、あまりにハードなのでは、とこちらが心配になる。それ程人気店の模様。

 

斜め左で展開する電話注文の受け答えも素晴らしい。なる程、来客が絶えないわけだ。

 

        **************

 

そんな中、私は、思わず食すのも忘れる40分弱が2㍍先で続いた。店長さん、餃子の焼き具合を見て「焦げた餃子は出さない!」と少しの容赦もない。

 

一度のことではなく、少なくとも4度は職人さんにダメを出しをした。そして、即廃棄。しかも、餃子担当の職人さん、本当に顔色一つ変えずに、黙々と餃子を焼き続ける。

 

その一部始終を、実は、わたしに見えているだけでなく、他の職人さんなり、アルバイトの方たちも全て知っているのだった。つまり、他の担当の方たちも、明日は我が身の可能性があることを知っているのだ

 

余所(よそ)なら構わず客席に運ばれたり、お土産に使うのならばこの程度大丈夫、OKなのにと私には見えたが、プロの仕事の厳しさを見た。

 

「餃子の王将」との看板を掲げるプライドだけでなく、社長さんを筆頭にしての徹底的にやりなさい、という指示があるのか。それとも、店長さんが心を鬼にして厳しく新人を鍛えているのだろうか。

 

        **************

 

かつて、神学生を夏期伝道実習に迎え入れていた頃(5年連続で迎えた時期もある)、私は「プロの牧師になろうよ」という意味の声掛けを実習にお出でになった方々に話していたことがある。

 

今では赤面ものだが、その当時は真面目にそう思っていたし、一所懸命に伝えたものだ。

 

さて我々は、現在の教会生活の中で「餃子の王将」で垣間見たような厳しさをもっているだろうか。そんなもの要らないとも言える。

 

だが、大事なことを突き付けられたように思うのも事実なのである。また、あのカウンターに座って餃子を食べたいと思う。王将ラーメンも美味しいですが!(もり)

 


6月17日(日)早朝、お台所でカレーを食べる会の準備をしてくださっている女性たち。Sさん、ここでも心をこめてご奉仕下さってました。
6月17日(日)早朝、お台所でカレーを食べる会の準備をしてくださっている女性たち。Sさん、ここでも心をこめてご奉仕下さってました。

◎2018月6月17 ・ 【 窓 167号

   『 小六で覚えた賛美歌 』

 

6月13日、水曜日の夜、受洗後1年目講座の時間をもった。私ともう一人役員さんに居て頂くことにしてSさんを迎えた。

 

会の冒頭「Sさんの今お好きな賛美歌は?」とお尋ねすると、即座に「504番の〈主よ、み手もて〉です」と答えられた。

 

「なにか切っ掛けがありますか?」と聞くか聴かないうちに、「NHKラジオ講座の基礎英語を聴くために父が買って来たラジオで、夜9時からいつも流れていた番組があって覚えました。辛いことがあった頃でした。布団の上で歌詞を暗記するほど好きで大人になっても口ずさみました。」と続けてくださった。

 

そして、「クリスチャンでもない私が大きな声で歌ってよいのだろうかと、ずーっと思ってました」とお話になった。

 

これは、受洗準備の頃にも伺った言葉だったかも知れない。しかし改めて聴くと、Sさんの誠実さを思わずには居れない。

 

小学校6年生の時から、教会にお出でになるまでのあいだ、ずーっと〈主よ、み手もて〉を心の支えにして来られたこと。それは、神さまのご計画だったのだなぁと確信する。

 

そして、40年以上前、独りの少女の魂に、み言葉ではなく、まず賛美歌が福音として宿っていたことに驚きを覚える。賛美歌ってやっぱり素晴らしいなぁ、とつくづく思うのだ。

 

Sさん、「504番の3節はまったく知りませんでした。ラジオで流れてなかったのかも知れません。今は3節が一番好きです」と教えて下さった。3節にはこうある。

 

   主よ、飲むべき わがさかずき、
   えらびとりて さずけたまえ。
   よろこびをも かなしみをも、
   みたしたもう そのまま受けん

 

1年近く前から、旭東教会の礼拝では賛美歌の歌詞をスクリーンに写し出しているのだが、その歌詞の準備を担当して下さっているのはSさんだ。初めは数曲だったが、今では全曲となっている。

 

この奉仕を続けていかれると、Sさん、ますます賛美歌の歌詞を大切にされる信仰が深まっていくことだろう。

 

「もう一つくらい、お好きな賛美歌あるでしょ?」とお聴きすると、「513番の〈主は命を〉」ですと即答頂いた。やはり歌詞を大事に思って居られることを教えて下さった。

 

日頃からそういう思いを抱いておられることがずーんと伝わって来て感慨深い。

 

礼拝や祈祷会では、じつに生き生きと大きな声で賛美するSさんのお姿が目に入ってくるこの頃である。ただただ主に感謝。(もり)

 

 

 


4月8日(日)のイースター礼拝・愛餐会のあと、十文字平和教会の方々と森牧師で記念の一枚 旭東教会礼拝堂にて
4月8日(日)のイースター礼拝・愛餐会のあと、十文字平和教会の方々と森牧師で記念の一枚 旭東教会礼拝堂にて

*4/1の窓は記述内容に鑑み、ホームページでは公開しておりません。 

◎2018月4月8 ・ 【 窓 157号

    『 十文字平和教会

      MMさんより

        旭東教会御中 』 

 

4月1日(日)は2018年の「イースター・復活祭」だった。この日から、旭東教会の牧師であるわたしは、神さまのお導きにより、この2年間礼拝応援に出掛けていた十文字平和教会の兼務主任担任教師としての責任を担うことになった。
 当日は、十文字平和教会の方々からのお申し出があり、旭東教会での合同礼拝となった。豊かな礼拝だった。そして、昼からは愛餐会と続いた。
 火曜日だったと思うが、以下にご紹介するお葉書が教会宛に届いた。何度読み直しても素晴らしい味わいのあるお便り。
 以下、ホームページ版は色々と考えて一部を削らせて頂いているけれど、それでも十分にMMさんの熱い思いが伝わってくる。味わって頂ければ幸いです。(もり)

                **************

 主に感謝
 旭東教会の皆様、本日は本当に有難うございました。
 長い間便り等、書いたこともない私が書かずにはいられなくて・・・・・・ 御すし、多くさんの食べ物、おいしかった。あれだけの量を作られた方々大変だったでしょう。
 そちらに居らせて頂いて居る間に、段々 段々 楽しくなって来て、皆様どなたもニコニコしてらしてやさしく接して下さり、私の心は温かくてたまらなくなった。
 くそ この楽しさ、嬉しさを ・・・・・・出ていたら もっと上手に 表現出来るのに。  ありがとう
              岡山市北区日近(ひじかい) MM

 


3月11日(日)の礼拝後、創作紙芝居で『幸福の王子』を演じてくださった布下満さんは十文字平和教会の会員です。このサンタさんの作者でもあります。いや、よーくみると本当に精巧なお人形なのです。
3月11日(日)の礼拝後、創作紙芝居で『幸福の王子』を演じてくださった布下満さんは十文字平和教会の会員です。このサンタさんの作者でもあります。いや、よーくみると本当に精巧なお人形なのです。

 ◎2018月3月11 ・ 【 窓 153号

       『 説教者のつとめ』

 

私が献身する少し前の20代半ば頃(当時の私は、様々な小劇場の芝居をわりにこまめに観ていた)、劇作家・放送作家・小説家として知られる井上ひさしさんが当時主宰していた劇団「こまつ座」の芝居を東京・浅草公会堂で観て深く感動したことがある。

 

井上ひさしさんはカトリックの信者か、あるいはそれにかなり近い環境の中で幼少期を過ごした、と聴いたことがある方だ。

 

その井上ひさしさんの語録の一つに、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」がある。

 

最近、出典を辿(たど)ってみた所、〈仏教の説教者〉の話術の極意を井上さん流に言い換えた言葉だと知った。印刷物としては劇団発行のものに載っているらしいことが、国立国会図書館への問い合わせ情報で確認できる。

 

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」

 

深い言葉だと思うし、大事にしたいことだと無意識のときも含めて、常々考えている。井上ひさしさん、すごい!と心底思う。

 

てっきり、井上さんのことだから、書き物の関連の言葉なのだろうとの先入観があったのだが違った。

 

国語辞典を引くと「つとめ」は「務・勉・勤・努」の文字があてられる。学ぶに終わりなし、といつも思うのだが、説教者のつとめもたゆまぬ修行が必要だなと思う。

 

修行とはもちろん、座学を言うとは限らないのだが。(もり)

 


1月28日(日)の特別伝道礼拝の説教の中でふれた大分上野丘高校1年生当時(1976年・昭和51年・9月)の実力考査成績表。11月、1月と同様の状態が続いていた。
1月28日(日)の特別伝道礼拝の説教の中でふれた大分上野丘高校1年生当時(1976年・昭和51年・9月)の実力考査成績表。11月、1月と同様の状態が続いていた。

 ◎2018年1月28 ・ 【 窓 147号

    『 病床受洗 』

 

31年前、私が洗礼を受けたのは東京下町・浅草橋にある柳橋病院という、当時は順天堂大学の関連病院の一室だった。タクシーの運転手さんの指定病院であることや、川越しに、両国国技館の相撲の太鼓の音が聞こえて来ていたのを覚えている。

 

母教会・銀座教会で復活祭(*イースター)に幾人かの方々と一緒に受洗の予定だったが、20代半ばになってから闘病が始まったB型慢性肝炎(現在は奇跡的に完治)の幾度目かの急性悪化で、またもや入院という事情だった。

 

主任牧師の鵜飼勇先生を始め、副牧師の斎藤寿満子先生、福音会英語学校でご一緒したことからその後ずっとお世話になった年配のO姉、青年会のF君も居られたと思う。

 

その日の、思いも拠らない病室のベッド上での受洗が、その後の私に明確な決心を与える事になるとは思いもしなかった。それが病床伝道だった。

 

ちなみに当時の私は、肝癌で帰天した母と同じ52歳で人生は終わると信じていた。この命には限りがある。人生に悔いを残さないためにも、病床にある方たちの為に、救いの福音を運んで行く働きに専心仕えたいと真剣に祈り始めていた。

 

「受洗で何かが変わりましたか?」と問われるならば「変わりました」と即答する。

 

有り難いことに、私は新しい人となり今年58歳を迎える。今日は特別伝道礼拝の日曜日である。(もり)

 


S君が二日間を見守った葬儀のお花の一部。
S君が二日間を見守った葬儀のお花の一部。

 ◎2018年1月14 ・ 【 窓 145号

        『 地獄? 』

 

〇〇信治兄の葬儀が執り行われた二日間をずーっと一緒に過ごした小学5年生の少年が居た。

 

安佐子姉の弟さん、K兄のご子息・S君だ。

 

以前、教会に来てくれた時は、ドッチボールを頑張っている、と話していた記憶がある少年だった。

 

信治兄の告別式を終えて、西大寺の斎場での火葬が始まり、待合室で皆さんとひと息いれ、一時間が過ぎた頃だったと思う。お父さんに連れられてS君が私の側にやって来た。

 

お父さんが「先生に質問があるんだよなぁ」と言うとコクリと肯いた。

 

聴いてみると、信治さんの葬儀、前夜式・告別式の式辞には〈天国〉はなんども出て来たけれど、〈地獄〉はなぜ出て来ないのか…、とのこと。

 

何とも素晴らしい質問だ。

 

少し慌てたが、マタイ福音書25章41節を交えながら一所懸命に話した。途中、お骨拾いが始まったので、席を移して食事の前にも続きを話した。

 

S君が聴きたかったことは見つかったのだろか。あるいは、ますます何かが気になり始めたのか。

 

後日、安佐子姉から、「時が来たらS君へ」と信治さんが買い置かれていたという、子どものための聖書を手にして帰宅したそうだ。さて、どこをめくっているだろうか。

 

楽しみに次の機会を待ちたい。(もり)

 

 


文集に出てくる祖父のNEB(THE NEW ENGLISH BIBLE)の最終ページ。万年筆を愛用していた祖父ならではの文字。ヨハネの黙示録22章です。私の宝もののひとつ。
文集に出てくる祖父のNEB(THE NEW ENGLISH BIBLE)の最終ページ。万年筆を愛用していた祖父ならではの文字。ヨハネの黙示録22章です。私の宝もののひとつ。

 ◎2017年12月3 ・ 【 窓 139号

   『 えんがわの歌 』

 

祈祷会では月初めのイエスさまの譬え話を学ぶ会以外は、こつこつと詩編を読み続けている。過日は、詩編71篇を祈祷会で学んだ。

 

71篇、作者はダビデの名を借りた老人(或いはそれに近い世代の人)と思われるが、この人は賛美歌を大切にしていることに気が付いた時、わたしは、なぜか父方の祖父・明麿(あきまろ)じいさんを思い出した。

 

**************

 

私は12歳まで、両親と姉と4人で〈納屋〉を改造した家に住んでいて、食事や風呂は祖父母の暮らす母屋で、という毎日だった。

 

トイレはあったものの、炊事場はなく、簡易ながらも流しが届いた時には飛び上がるほど嬉しかったものだ。

 

話は戻って、祖父のことである。

 

祖父・明麿は、孫が言うのもどうかなと思うが、勉強熱心なクリスチャンだった。というよりも、信仰の篤い人だったと思う。

 

**************

 

手元にある祖父の遺品、英語の新約聖書(THE NEW ENGLISH BIBLE)の最終ページの通読記録を見ると、1977年(昭和52年)に初めての精読了76歳と記録し、その時は2年間掛けている。しかも、他の英語聖書とも併読(Rsv)とある。

 

その後、1979年晩秋に78歳で読了、1981年早春読了、1983年初夏6月読了、1984年早春2月読了83歳、1987年早春1月読了86歳、1988年初秋9月1日読了87歳、1989年秋10月24日読了88歳とある。

 

神学校に入学したわたしのことをこの記録に拠れば知っていたことになる。

 

**************

 

だが、そんな祖父から、私は聖書の話をじかに聴いたことはなかった。

 

ところがである。祖父は縁側(えんがわ)にどっかりと腰を下ろして、しばしば音痴も気にせず賛美歌を歌っていた。

 

ただそれだけのことながら、振り返って見ると、その賛美歌を聴きながら私は間違いなく成長していったのだ。それは、祖父自身も知らざる伝道だった。

 

今、賛美歌が好きなわたしのルーツが「えんがわの歌」にあったことを知った。(もり)

 

 


2017年8月6日は平和聖日 聖餐式をおこなった 杯は備前焼 会員の陶芸家明美さん作
2017年8月6日は平和聖日 聖餐式をおこなった 杯は備前焼 会員の陶芸家明美さん作

◎2017年8月6 ・ 【 窓 NO.122

       『  神の言葉への期待  』

 

若松英輔という方が居られる。

 

『イエス伝』(中央公論新社)も書かれる随筆家であり批評家、そして薬草商でもある。1963年生まれだから同世代の方だ。

 

薬草商という珍しいし仕事に携わっておられることは実に興味深い。

 

そこにたどり着くまで、若松氏の人生の紆余曲折があるらしい。順風満帆からは程遠い歩みを経験されているそうだ。近しく思う。

 

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詩人の〈和合亮一氏〉は〈若松英輔氏〉と書簡のやり取りをする信頼し合う間柄だが(『悲しみが言葉をつむぐとき』岩波書店)、あるところで若松氏の詩を読み解かれ、こう記されている。

 

【私たちは薬草の「はたらき」のように、ゆっくりと確かに効能が現れてくる言葉や詩を欲している。若松英輔氏はそれを伝えたいのではないかと思った】と。

 

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私も初めての詩集だという『詩集 見えない涙』(亜紀書房)の作品「薬草」に惹かれた。

 

以下は、その一部。「言葉」に心を向けて黙想すると、実に深い余韻がある。以下、「言葉」に添えた〈〉は私の手によるもの。

 

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○「誰が命名したのか  言葉〉は その名のとおり 植物のはたらきに よく似ている 予期せぬ場所から 舞い降りて 人生の季節が変わったと しずかに告げる」

 

○「薬草が必要なときは どんなに苦くても ぐっとこらえて とり入なくてはならない 〈言葉〉も同じだ 苦い言葉も あるときは じっとこらえて 受け容れなくてはならない」

 

○「薬草は じっくり煎じてから飲む 効能が潜んでいるのは色素 薬効が からだに浸透するにも 少し時間を要する 〈言葉〉も同じだ 隠れている意味の色を 時間をかけて ゆっくり 味わい 感じなくてはならない」

 

○「ときには ひとつかみの 草を探すためだけに 山深く 分け入らなくてはならないように たった一つの〈言葉〉を探すために 人生の長い旅に出なくてはならないこともある」

 

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若松氏は「言葉」の力に信頼している方だと、薬草の効能のようにじんわり、否、確かに伝わって来る。

 

そう、もしかすると、聖書に馴染んで居られない読者には感じないかも知れないが、彼は明らかに、いつも聖書を心の片隅に置いているのだ。

 

実際若松氏は、井上洋治神父さま他の影響を受けたカトリックの信者さんだと聞いた。

 

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私たちはいったいどのような〈言葉〉を探す旅を続けているのだろう。

 

どんな効き目の〈言葉〉があれば、薬草がなくとも癒しや救いを経験できるのだろうか。

 

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共に思い巡らして見よう。

 

私たちには〈み言葉=イエス・キリスト〉があることを。

 

やはりそう想うのだ。(もり)

 

  


2017年3月12日(日)、礼拝堂の献花の中に様々な春が隠れている。
2017年3月12日(日)、礼拝堂の献花の中に様々な春が隠れている。

   ◎2017年3月12日 ・ 【 窓 NO.101

       『  床屋さん 』

 

幼い頃のことも含めて引っ越しの多かったわたし。

 

これまで何軒の床屋さんに行ったことかなと思う。小学校の頃は、自転車で10分、江村理容店の土佐犬を自転車で散歩させていたこわーいおじさんと、かたや、まったく正反対のお人柄に見える優しいおばさんの所に一ヶ月に1度出掛けていた。

 

「げんちゃん、髪が赤いのは、わかめを食べんからや」と注意されるのが辛かった。

 

中学生の頃から、あーでもない、こーでもないと友人らと言いながら、少しでも自分の思いに近いカットをしてくれる床屋さんをさがし始めたような気がする。

 

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岡山に来てからも何軒かの床屋さんに行った。

 

ま、これ位ならいいか、と思って妥協することもあったし、安いから仕方ないなと考えたりもした。

 

いいかなぁ、と思いかけた床屋さんの店主が、こちらの好みを行く度に伝え直さなければならない人だと気付いてガッカリしたり、だった。

 

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ところが、心底素晴らしいなと思う理容師さんに、この度ついに出会った。お値段もフルコース?で2,500円は決して高くない。

 

お名前は土居さんと言う方で50代の女性。

 

とあるお店のスタッフで経営者でもない。一回目の時に「店長さんですか?」と私が言うと「とんでもないです」と言われた。

 

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何に感動するのか。

 

彼女にとっては当たり前らしい、さり気ない職人技があるのだった。

 

理容師さんの世界では今では当たり前なのだろうか。初めて出会った時、おおむねのカットが終わったところで、「ドライヤーで乾かして、ちょっと確認しますね」と言われたのにまず驚いた。

 

確かに、濡らしたままのカットでは仕上がりがわからない。

 

でも、人生56年と数ヶ月。そんな風に言われた理容師さんは一人もいなかったのが現実。

 

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今回はシャンプーの丁寧さに驚いた。

 

前回は若手の方に分業するようにして任せられたので土居さんは担当されなかったのだが、シャンプーが始まって直ぐに何かが違うと感じ、終わる頃には確信に変わった。

 

お声を掛けて手を止めてもらって「不満ではなく、感謝ですよ」と伝えながら「土居さん、土居さんの洗い方、僕が自分で洗うのと全く同じ感じなんですよ。こんなの生まれて初めて」と。

 

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笑顔の彼女は嬉しそうに「自分の頭を洗う感じをいつも想いながらシャンプーするんですよ。前回も本部にメールに頂いて・・・・・・森さんには勇気づけられます」と言われた。

 

いいものや良いことに出会うと、自分の思いをお伝えすることが歳のせいか多くなったわたし。もう一つの気付きがあって更に続けた。

 

「土居さん、このお仕事が本当に好きなんですね」と。

 

肯く彼女は「休みの日も手を動かしてしまうんです」と仰った。

 

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YouTubeで「プロフェッショナル・仕事の流儀」という番組をたまーに見ることがある。

 

各分野でこつこつと当たり前のことを丁寧に続ける、その道の最高峰の方々の仕事ぶりや信念、いや、生き方に本当に多くの刺激を受ける。

 

意識の高いプロフェッショナルとの出会いは、結果的には、牧師としてのわが身を顧みる最良の機会と思う。

 

学ぶに終わりなし、を胸に刻みながら仕えて行きたいものだ。(もり)

 


2017年1月29日(日)の礼拝収録が終了したあと、日々のキリスト教放送局・日本FEBCのお働きについて伺っているときのひとこま。
2017年1月29日(日)の礼拝収録が終了したあと、日々のキリスト教放送局・日本FEBCのお働きについて伺っているときのひとこま。

  ◎2017年2月5日 ・ 【 窓 NO.96

       『  伝わることば 』

 

キリスト教放送局・日本FEBCからの旭東教会での「主日礼拝収録番組 全地よ主をほめたたえよ」の取材のために、スタッフでパーソナリティも務める安保ふみ江さんが来会。

 

控えめでありながら爽やかに収録のお仕事を終えられ、すーっと旭東教会を後にされた。

 

なんと、旭東教会をあとにされたあと、さらにもう一つの協会取材に向かわれたとあとで知った。

 

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数日後「なにか、実家に帰ってきたような安心感で過ごさせていただきました」

 

「お昼もとても美味しい〈かけ汁〉!そして、何より皆様の明るい笑顔が、一番のごちそうでした」

 

とのとの嬉しいメールが届いた。

 

肌に感じられた率直な思い、と素直に受け取らせていただこう。ありがたいこと。今頃、2月10日(金)朝10時からのインターネット放送に向けて編集作業中なのだろうか。

 

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さすが、放送局でのお仕事を長年続けて来られた方と気付いたことがある。

 

それは、FEBCの日々のお働きやリスナーの方々との深い交流の様子について〈あかし〉をして下さった時のマイクの持ち方がさり気なく、美しく、的確だったこと。

 

この道に入られて28年とお聞きしたので、もう完全に無意識の世界かも知れないけれど、口元に向けるマイクの角度、何㌢くらい離せばよいのか、声の大きさの加減を熟知しているのだ。聴きやすい。

 

ワイヤレスマイクをお渡しするときに「かなり感度がいいと思います」と伝えたことがあとで恥ずかしくなった。

 

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東京の同労の仲間たち=伝道者たちが、もう70歳に近い大先輩も仲間入りして、舞台俳優さんさんから発声を学んでいることを最近知った。

 

どんなに素晴らしい説教であれ講演であれ、それが、聴き手に伝わらなくては元も子もない。学ぶに終わりなしをふと思い出した。(もり)

 


2015年11月22日(日)の礼拝報告時、関田寛雄先生をあらためて紹介。関田先生、ここでフーテンの寅さんを引用しながらみんなをお笑いさせられました(^^♪
2015年11月22日(日)の礼拝報告時、関田寛雄先生をあらためて紹介。関田先生、ここでフーテンの寅さんを引用しながらみんなをお笑いさせられました(^^♪

◎2015年12月13日 ・ 【 窓 NO.37】

    『  恩師からの補講の直後に  』

            (『週報』のミニコラムにちいさな加筆をしています)

 

過日、旭東教会の特別集会においで下さった関田寛雄先生は私にとって恩師とも言うべき方の一人。とは言え、世には「関田寛雄先生こそ我が恩師」と思っている人は何千人、何万と居るだろう、というレベルの話なのだが。

 

それでも、間違いなく、私自身が人として生きるとはどういうことか、クリスチャンとして牧師として、いつもその存在は重しとなり、座標軸となっていると思う。

 

旭東教会にお迎えした11月22日(日)の夜、妻と共に西大寺の片隅で夕食をご一緒させて頂いた。かつてはマイ箸を持って歩いておられたけれどこの間は出されなかった。

 

地元の岡山の米ビールなるもの少し口にされ、あれやこれやと話をし、いつしか、神学的な話題も食事の席で出てきた。特に、現場から生まれてくる言葉の重さについて考えさせられお話が展開していた。

 

関田寛雄先生は、各地の神学校で説教学や牧会学の講義も担当された方。現場に出て20数年の私は今頃になって教えて頂きたいなぁと思うことが不意に胸から飛び出した。それは「葬儀説教」についてのものだった。

 

先生の言葉を必死になってノートしたわけではないので、そのままをご紹介するわけではないけれど、先生は私の質問に対して、深く頷き、身を乗り出しながら3つのことを口にされたと思う。私からの問い掛けは敢えて伏せるけれど、それでも、葬儀全般に通じる大事なことをお話下さったと思う。

 

「その人がどんな人生を歩もうとしたのかを語りたいねぇ」「未来志向でね」「教会だけでしか通じない言葉は使わないように」。

 

思い掛けない形の「説教学」「牧会学」を兼ねたような補講受講後2週が経って、K義兄が召天。葬儀を迎えることとなった。(もり)

 

 


文中の萩焼のお店。扇窯 佐久間正和さんのお店。萩市川上2662が住所。
文中の萩焼のお店。扇窯 佐久間正和さんのお店。萩市川上2662が住所。

◎2015年9月27日 ・ 【 窓 NO.26】

 

『  旅の楽しみ  』 (『週報』のミニコラムをそのまま転載しています)

 ※〈加筆版〉は別ブログの【森牧師の部屋】というBlogに(赤をclick)にアップ予定です。 

 

▼夏休みを頂き久しぶりに九州へ向かった。途中、心地よい思い出のある萩市にも出掛けた。

 

萩焼が目的というわけではなかったのだが、ぶらぶらと歩いている内に青色の珈琲カップとお皿のセットが目に止まり2千円の買い物となった。

 

▼店番の婦人に「何だか、気分がいい作りですね、このお店」と話しかけた。

 

「一ヶ月前に開店したばかりなんです。夫が焼いたものを置いているのですが、この辺りにずっと店を構えたいと・・・・・・」との声。

 

▼ここ数年、色んな場で声掛けすることが多くなった。

 

歳だろうか。

 

いやいや、教会での出会いの数に比例し話し好きな人になって来たようにも思う。(もり)