旭東教会の「グリーフケアの集い」でご紹介する絵本の一部です。グリーフケアの集いは二ヵ月に一度、偶数月の最終水曜日に行っています。
旭東教会のグリーフケアの集いでご紹介する絵本の一部です

《  岡山 グリーフケアの集いの部屋  》

  ※「生と死を見つめ」「生と死を語り合い」不思議とこころが軽くなっていく会です。


誰もが抱えることがある、悲嘆や痛みの置き場所を、ご一緒につくりませんか。 悲嘆は、時の流れの中に身を置くだけでは、誰ひとりとして解決できません。


宗教的な立場を超え、語り聴き、黙し、ゆっくりと歩みだすことを願う集いです。 悲しみに共感し、混乱している自分を肯定してくれる場が私たちには必要です。


死別だけでなく、ご自身のご病気、失業ほか、様々な喪失による悲嘆を含めて、 共に心を傾け合い、グリーフワークを続けています。


参加者のさまざまな内なる、うめき、涙に出会うとき、私たちは不思議なことに これまで語ることが出来なかった、言葉を口にすることができるのです。


 

「岡山 グリーフケアの集い」

 ※「生と死を見つめ」、「生と死を語り合い」ながら、

      グリーフワークを、ぼちぼち行っています。

 

 次回の予定は以下の通りです。

     6月26日(水) 午前10時~12時

     6月26日(水) 午後 7時30分~9時15分

 お問合せの電話も歓迎いたします。

 さらにその次は  2024年  8月28日(水)に行います。

  時間は 毎回

   午前の部:10時~12時

   午後の部:7時30分~9時15分

 

 関心のある方はお気軽にお電話ください。会費は無料ですが、教会への支援の献金・カンパ、歓迎いたします。

 

 現在、ふた月に一度のペースで行っています。今は無理でもいつかあなたもどうぞ。

 ※クリスチャンでない方が安心して集える会です。お気軽にお問合せを。

 

 わたしたちの岡山市東区西大寺にある旭東教会を会場にしての「グリーフケアの集い」は二ヵ月に一度おこなっている会です。スケジュールは上にご案内の通りです。会場は教会ですが、布教・宣教活動はいたしません。仏教徒の方、自覚的な信仰を持たない方はもちろん、キリスト教に近しい思いを抱かれる方々の参加も歓迎です。

 

 わたしたちの「グリーフケアの集い」は大人数の集いではありません。3名~12名程度までを想定し、コツコツと続けていきます。

 

 まずは、岡山市近郊の方(遠方の方もお出でになります)で、グリーフケア・グリーフワーク(悲嘆の消化作業)の場を求めて居られる方が居られましたら、ぜひ一度、ご参加くだされば幸いです。早めにグリーフケアを必要としていると感じて居られる方は、遠慮なくご相談ください。

 

 

◎このような会を行っています 岡山近郊でグリーフケア(「生と死を見つめ」「生と死を語り合い」ます) を必要としている方々の集いです

 

 人生途上の様々な喪失・悲嘆の中にある方々の自主参加による時間が「グリーフケアの集い」です。信仰の有無に関わらずご参加頂けます。教会員以外の方でも、安心してご一緒頂けますし、実際に、教会外のノンクリスチャンの方たちが継続して参加して居られます。

 

 わたしたちの会で無理にお話をして頂くことはありません。

 

 参加者同士で一定の配慮の原則を確認して、心を傾け合うことをたいせつにします。教会で行いますが、祈る心はもっていても、お祈りはいたしません。そのような会です。進行係に近いですが、今のところ牧師が導き手(=ファシリテーター)となっています。

 

 わたしたちの人生の中には多くの別れの経験があります。

 

 大切な方の召天・突然死、自分自身の病、ペツトロス、定年や人生の転機、転居・転校・転勤、育児ノイローゼ、介護・看護、自身の病気(特に何かを失っていく病との闘い)などによる環境の変化で元気を失っている方、お疲れの方、悲嘆の中に居られる方、そのような方々はみなグリーフケア・グリーフワーク(悲嘆の消化作業)を必要としている可能性があるのです。

 

 限られた時間ですが、喪失体験の現れ方や回復のプロセスを学び、静かに思いを聴き合います。

 

 シェークスピアは「口に出して嘆きなさい」と語ったと言います。実は何よりもそのことが癒しの機会となり、こころの支え、安心となっていくのです。悲嘆を乗り越える上で、最も大切な要素は、悲しみの感情を自由に、そして、十分に安心出来る環境の中で発散させることなのです。感情を抑圧してしまうと、悲嘆はいつしか心病む状態を生みだしてしまいます。

 

 また、グリーフケアにつながる「絵本」の読み聞かせの時間も持ちます。最近では『悲しみのゴリラ』を読みました。

 

 グリーフケアのための基礎知識を身に付けることは、悲嘆の中にある方にとっても、寄り添いをされている方にとっても大変有益です。

 

 わたしたちには、大きなことはできません。も、コツコツと、ちいさな会を続けてまいります。

 

 あなたのご参加をお待ちしていますし、ぜひ、グリーフケア・グリーフワーク(悲嘆の消化作業)を必要としている、あなたの大切な〈あの方〉にもご紹介ください。

 


下の写真集はClickしてゆっくりおすごしください



上の写真集はClickしてゆっくりおすごしください


日本キリスト教団旭東教会「グリーフケアの集い」のお部屋へようこそ。

●人生途上の様々な喪失・悲嘆の中にある方々の集いです。

 

●ご家族の召天、ペツトロス、定年や人生の転機の中、元気を失っている方、ご参加下さい。

 

●限られた時間ですが、グリーフケアの基本を学び、絵本の紹介・朗読を予定しています。

 

●静かに思いを聴き合う時間を持ちます。

 

●会場は教会ですが、信仰の立場や背景は全く無関係に、どなたも参加頂けます。会費は今の所頂いていません。今後必要になった時には、参加している皆で相談いたします。


日本キリスト教団旭東教会「グリーフケアの集い」のお部屋へようこそ。宗教に関わりなく、安心して集える場です。

はっきり言っておく。

一粒の麦は、

地に落ちて死ななければ、一粒のままである。

だが、

死ねば、多くの実を結ぶ。

(聖書の言葉より)


  グリーフケアの集い

    知っていますか?

旭東教会  牧師  森 言一郎(もり げんいちろう)

 

沈黙はやがて 歌に変えられ、

深い闇の中 夜明け近づく。

過ぎ去った時が 未来を拓く。

その日、その時を ただ神が知る

                       『讃美歌 21』575番「球根の中には」 2節より

 

1 グリーフケアってなーに?

 旭東教会がこつこつと続けてきている「グリーフケアの集い」ですが、そもそも「グリーフケア」とはどういうものなのでしょう。

 「グリーフ」とは英語で「Grief」。日本語にすると「悲嘆」「深い悲しみ」の意味です。その「ケア」、英語で「Care」ですが、本当にそんなことができるのかというと、答えは簡単ではありません。

 「グリーフケアの集い」は、先ず第一に、愛する人との死別を経験し、誰にもお話できず、どこにも持って行けないような人生途上の様々な悲嘆・深い悲しみの中にある方が安心して集う場を想定しています。

 毎日新聞で「みんなのなやみ ぼくのこたえ」と題して人生相談をなさっている、作家の高橋源一郎さんの近著は『居場所がないのがつらいです』『誰にも相談できません』(毎日新聞出版)です。そのタイトルだけでもぐっと惹かれるのは私だけではないはずです。 

 

2 グリーフケアの対象は思いのほか広いもの

 いみじくも、高橋源一郎さんが本のタイトルにされた「居場所がなくてつらい」、「誰にも相談できない」という現実は、愛する人との死別だけに限られるものではありません。グリーフケアが必要とされるのは様々な方々だと考えられますし、事実、私たちの身の回りには、思いのほか多くの悲嘆があるのです。

 私がグリーフケアの集いでのためにつくってお配りしている基本的なプリントには「入学」「病気」「転職」「定年」「失恋」「離婚」「死別」「ペットロス」が悲嘆の一因であるとメモしています。ペットは現代では、「同伴家族・異種家族」と考えるとよいと思います。他にも、「子どもの成長」「子どもの結婚」「様々な依存症」もグリーフケアの対象と考えています。

 私たちの人生途上には、実に複雑な事情や感情が生じるのです。「あなた、そんなことで落ちこんでいるの!」と言われるようなことが日常的に色々と起こるわけです。 

 

3 沈黙の時間にも 私たちは話し続けている

私たちが行っている「グリーフケアの集い」。力は乏しいですし、うまく行かないことも当然しばしば起こっています。力不足だったなと感じることも多いです。悩ましいこともあるのです。

 心が通い合う時間、沈黙がゆるされる時間、涙することができる時間を過ごせる。それが、私たちの「グリーフケアの集い」のような気がしています。ふた月に一度、こつこつと続けています。暑い夏の日でも、大晦日に近い年末でも、偶数月に最後の水曜日の午前と夜に開いています。

 なぜ、教会で?と思われるかも知れません。でも、決してキリスト教を信じる人のためだけの会ではありません。場所は教会ですが、キリスト教らしさを感じるとしたら、「グリーフケアの集い」を行う20畳ほどのお部屋に、最後の晩餐のステンドグラスがある位ではないかと思います。

 ただし、司会進行は牧師の私が担当しますので、もちろん根っこにキリスト教があることは大前提となっています。 

 

4 日本国内でのグリーフケアの始まりについて

 広く知られていることかも知れませんが、日本において死生学であるとか、グリーフケアを先頭に立って引っぱって来たのはクリスチャンでした。

 上智大学で日本で初めてとなった「死生学」という講義を担当され、深め、浸透させて行かれたアルフォンス・デーケン先生はイエズス会の司祭です。多くのご著書があって、日本での死生学のパイオニアとなって下さいました。

 2005年4月のJR福知山線脱線事故のあと、グリーフケアの働きに仕えられたのは、カトリックのシスターである高木慶子さんだったことも知られているところです。 

 5 私とグリーフケア

 私自身の関わりを少しご紹介します。20代の半ば頃ですから、もう40年近く前なのですが、東京の「生と死を考える会」に何度か出かけていました。そこで前述のデーケン神父さまの存在を知ったのです。当時は、かなりやっかいな病気であった慢性化したB型肝炎との闘病生活、長期にわたる入退院が切っ掛けでした。

 その頃、もっと知りたい、考えたい、と思って読み始めていたのは「死」に関わることでした。「死」を考える心の裏腹にあった思いは、「何とか生きて行きたい」「与えられた命を生き抜きたい」という願いだったと思います。その頃のことが、私自身が今、「グリーフケアの集い」を大切にし、ライフワークとしている土台にあります。

 さかのぼれば、厳しい闘病を経て召されていったわたしの母のことを抜きには考えられません。病室で父に抱きかかえられる母の姿を受けとめきれないままの何年かがあったことは深い所で影響していたと思います。

 

 

6 参加者の〈断片〉こそが最大の力

 私たちの「グリーフケアの集い」では、こちらが一方的に何かを提供するわけではありません。毎回メンバーがどうなるのかも分かりません。市民講座でもありませんし、単なる勉強会でもありませんから、手探りの、出会い頭のライブ感があることが最大の長所かも知れません。

 最善を尽くす努力も日頃から続けています。関連の絵本情報はいつもアンテナを張って探していますし、新聞記事にも目を配り、これは役立ちそうだ、と感じると直ぐに切り抜いて新鮮なうちに「グリーフケアの集い」の時に資料として用います。

 ハッキリと言えることは、私が癒しや救いをお届けするのではないということです。むしろ、他の参加者で悲しんでおられる方の言葉、横顔、後ろ姿、涙。それらの断片すべてが不思議な力となるのです。 

 

 

7 やがて、いつか、気がついてみたらの希望

 「グリーフケアの集い」に参加されて、何かのひとかけらでも見つけることが出来れば、痛みや悲しみは少し和らぐものです。例えて言うならばですが、あまりに効き目のよい即効薬が準備されているような会であるとしたら、むしろ危ない思っています。不思議なことに、しばらくお出でにならなかった方が、何年か経ってから戻って来られることもあります。結果として、必要とされていたのだ気付かさ感謝しています。

 集いを卒業される方が起こることは望ましいことです。もう必要なくなるのですから嬉しいことなのです。そして、やがていつか、完全には癒されていないけれど、悲しみは消えないけれど、誰かのために新しく生きていきたい、生きて行けると感じるようになって下さっていたら、本当に嬉しいことです。 

 もしかすると、この集いから、グリーフケアを新たに必要とする方々に寄り添う新しいお一人が生まれることが、ささやかであるけれど、真実な喜びかも知れないと考えています。 

 

8 おわりに

 肩の力を抜いて記させて頂きました。誰にも「ホーム」つまり「戻って来る場所」が必要です。悲嘆の中にある方は、居場所、安心してお話できるところを探しておられます。そして、悲しんでいる方のお話を静かに聴きたいと思っておられます。

 そのひとつが旭東教会の「グリーフケアの集い」であるとしたら幸いなことです。「じゃあまたね」と言葉を交わしながら、人生の旅路を共に歩んでいきたいものです。(end)       2022年9月9日(金)秋の夜に 

 

★ その後の〈補記〉

あらためて申し上げます。「グリーフケアの集い」は大切な人や、大切な何か、そして、自分自身の大切なものを失った経験や体験をおもちの方たちの集まりであり、その思いを語り合い、聴き合う場である、ということです。

 

最初のうちは、話ができないことがしばしばあります。でも、ここでは、上手に語ろうとする必要は少しもありません。たどたどしくてもよいのです。自分のことばで自分のいたみや悲しみをお話ください。出席者は互いにしずかに心傾けます。

 

心の奥深い所にあるものを、一度きりの参加で語りきることができることなどありえません。だからこそ、何回も参加してください。そして、同じ内容のことを同じようにお話くださっても構わないのです。安心してお話ください。

 

ファシリテーター(導き手・司会進行役)を務める私が、「今日はこのあたりまでにした方がよいかな」と気付いた時は、ちいさな助言のことばを、お話をさえぎってでも、必ずお伝えします。

 

もう一つ、他の参加者の方のお話を聴くということも、自分が話す以上に慰めになったり、希望になったりすることがあることを知っておくことも一方で大事なことかも知れません。「きょうは他の方のお話を聴くために参加いたしました」ということもよい切っ掛けになります。

 

 

なお、悲しみの大きさや嘆きを、他の方と比べてしまうことがありますが、一人ひとりの生きて来た文脈をすべて理解できることなどはわたしたちにはできません。

 

そのような「比較」からの解放・自由は、すこしの努力を続けることが必要かも知れません。(以上です)


旭東教会の礼拝堂の錨十字のある素敵な扉です。2023年6月に新しく設置いたしました。味わい深い錨十字のある礼拝堂の扉。ぜひ、お出かけ頂き触れてみて下さい。色々と工夫が凝らされています。
グリーフケアの集いにお出でになると、グリーフケアの集いを行うお部屋とは反対に、礼拝堂が見えます。その入口の扉がこちらです。「錨十字」が据えられた旭東教会扉はとても美しく心が落ち着きます。