星ことば 五〇〇字メッセージ

  2分で読めて わかりやすい 聖書のお話をどうぞ    

       森牧師の〈 説教断片 〉 


2024年4月21日(日)みんなの教会学校では、校長先生の久美さんが『カラフルな仲間たち』という小冊子からのメッセージを語って下さいました。深いメッセージだったと感謝です。
2024年4月21日(日)みんなの教会学校では、校長先生の久美さんが『カラフルな仲間たち』という小冊子からのメッセージを語って下さいました。深いメッセージだったと感謝です。

 

2024年4月21

牧師 森  言一郎 

   『 八日の後(のち)にもイエスは 』                                           

【 聖 書 】 

さて八日の後(のち)、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

                     (ヨハネによる福音書 20章26節)

 

 

(よみがえ)りの主イエスと10人の弟子たちとの再会が起こったのは、「週の初めの日の夕方」であったと聖書は告げます。

 

それはユダヤ教の「安息日の翌日」という意味ですから、今の「日曜日」ということです。

 

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「ユダヤ人を恐れて」、エルサレムのとある家に身を隠していた彼らの前に現れたイエスさまは、深い傷のある手とわき腹をお見せになりました。

 

心の準備がなかった弟子たちが、「傷のある主を見て喜んだ」という描写はリアルです。

 

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「週の初めの日」、トマスだけは仲間たちと一緒に居りませんでした。かつて仲間たちに、「私たちも行って一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)とまで語っていたトマスにとって、主イエスを「見捨てて逃げてしまった」ことは受け入れがたい事実なのです。

 

トマスが仲間たちの処(ところ)に遅れてやってきた時、「私たちは主を見た」と言われても、これもまた彼にとって受け入れられないことでした。

 

だから、「釘跡に指を入れて確かめない限り信じない」とトマスは言い張ります。

 

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ところが、「八日の後(のち)」、トマスを含む11人の前に再びイエスさまはお姿を顕されたのです。

 

ここには深い意味があります。

 

私たちの信仰生活に於ける「日曜日」そして「主の日の礼拝」とは、実は、この深い傷のあるイエスさまとの再会の繰り返しの場だからです。

 

そこでイエスさまは私たちに何度でも出会い直し、息を吹き入れて下さいます。

 

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聖書には描かれていませんが、トマスもまた、「息を吹きかけられた」と私は信じています。end 

 

 


2024年4月14日(日)講壇のすべてが美しく見えます 復活を証しする女性たちの物語を力を込めて説教中の森牧師 
2024年4月14日(日)講壇のすべてが美しく見えます 復活を証しする女性たちの物語を力を込めて説教中の森牧師 

 

2024年4月14

牧師 森  言一郎 

   『 ベタニア村にも福音が届いた 』                                           

【 聖 書 】 

そして、墓から帰って、11人(の使徒)とほかの人皆に一部始終を知らせた。        (ルカによる福音書 24章9節)

 

マグダラのマリアを中心とする女性の弟子たちは、墓で出会った二人の若者(=天使)からの、「あの方は、ここにはおられない」の言葉を直ぐに受けとめることができたわけではありません。

 

マルコ福音書16章によれば、「墓を出て逃げ去り、震え上がり、正気を失っていた 」のであり、「恐ろしかった」のです。思考停止の硬直状態でした。

 

でも、彼女たちは初めの一歩を踏み出したのです。

 

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当時の社会でも、「七つの悪霊を追い出して頂いた」(ルカ福音書 8:2)というマグダラのマリアのような女性の弟子たちの存在は軽く扱われ、その言葉も信頼されていませんでした。

 

事実、空っぽの墓の証言を聴いた11人の使徒たちは、その言葉を、「たわごとと思い、信じなかった」のです。

 

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私たちはここで、一つの思い込みから解放される必要があります。

 

復活の出来事が伝えられたのは「11人」だけではない!聖書には、「ほかの人皆に」とあるのです。ゴルゴタの丘への道では、「女性たちが大きな群れを成してイエスに従っていた」(ルカ福音書 23:27)とあります。

 

つまり、福音書には名前が出てこない無名の女性たちも、散り散りになって、一斉(いっせい)に、都エルサレムの周辺に居た11人以外の仲間や友人たちにも、「主の復活」を告げたのです。

 

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ヨハネ福音書11章に登場するエルサレムの東3.2㎞に位置するベタニア村に暮らすマルタ・マリア・ラザロの3人のきょうだいたちにも、主の甦りの福音が届きました。

 

 

3人は、イエスさまによる、「私は復活であり命である」のお言葉(ヨハネ福音書 11:25)の成就を知ったのです。end

 

 

 


2024年4月7日(日)森牧師が兼務する丘の上の十文字平和教会から見える桜並木
2024年4月7日(日)森牧師が兼務する丘の上の十文字平和教会から見える桜並木

 

2024年4月7

牧師 森  言一郎 

     『 愛ある〈おとがめ〉 』                                           

【 聖 書 】 

その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

            (マルコによる福音書 16章14節)

 

マルコ福音書の最後は不思議な〔〕(かっこ)で括(くく)られています。直前までのマルコの筆のタッチと較べて大きな違いがあります。それは注意深く読むと私たちでも感じる程です。

 

私自身はここを初期キリスト教会のクリスチャンの貴重な証しと考えます。

 

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ここで強調される形で3度繰り返される言葉があります。11人の弟子たちがイエスさまの復活を「信じなかった人である」ということです。

 

食事をしていた11人の弟子たちにイエスさまが姿を顕(あらわ)して「おとがめ」になったのは、彼らが「不信仰」で「かたくな」だったからだというのです。

 

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「おとがめ」という日本語は、我々も時に耳にする言葉ですが、日本語の聖書の訳としてはオブラートに包んだ遠慮気味なものです。

 

実際は、「非難する」「なじる」「問いただす」という語です。イエスさまは彼らに対して真っ正面から雷を落としておられるのです。

 

パウロがエフェソの教会に向けての手紙の4章13節で「愛に根差して真理を語り」と記したことを思い起こします。

 

そしてまた、シモン・ペトロに対して「サタン、引き下がれ」と言われたイエスさまのお姿を思うのです。実に、厳しさを伴う愛は、私たちの希望です。

 

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愛する者を叱り飛ばされる主イエスは、やがて彼らに聖霊の力をお与えになり、福音を宣べ伝える使命をお与えになるのです。

 

ここに、ゆるされた者である私たちへの愛がはっきりと見えます。end

 

 

 


2024年3月31日(日)復活祭・イースター礼拝で、4月からみんなの教会学校校長先生になる久美さんの任職式を行いました。お式の最後に皆さんに改めてご紹介
2024年3月31日(日)復活祭・イースター礼拝で、4月からみんなの教会学校校長先生になる久美さんの任職式を行いました。お式の最後に皆さんに改めてご紹介

 

2024年3月31

牧師 森  言一郎

 

    『 アリマタヤヨセフ新生 』                                             

【 聖 書 】 

アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。

            (マルコによる福音書 15章43節)

 

 イースターのみ言葉です。

 

「復活」を祝うだけがイースターではありません。「アリマタヤ出身のヨセフ」という議員の「初めの一歩」から「復活」には「新生」という一面があることを学びたいと思います。

 

彼は、十字架の上で死んで捨てられたイエスさまをピラトから引き取り、自分が造った墓に納めるのです。

 

人生を変えていく一歩でした。

 

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「アリマタヤのヨセフ」はマルコ福音書では「議員」とありますが、マタイによる福音書27章では「金持ち」だと紹介し、さらに「この人もイエスの弟子であった」とあります。

 

一方、マルコ福音書とルカ福音書では、「神の国を待ち望んでいた」というのです。

 

ヨセフはこれまで、公(おおやけ)にイエスの弟子であることを明らかにしたことがなかったのですが、ここから新しい道を歩み始めました。議員の地位も、お金も手放したことを意味する行動です。

 

古いヨセフはここで死にました。世の人が知るヨセフではなくなった。

 

では、彼は全てを失ってしまったのでしょうか。答えは否でした。

 

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パウロは「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」(ロマ10:10)と語りましたが、ヨセフの信仰告白がここにあります。

 

十字架の出来事はヨセフの妨げを打ち砕きました。

 

そしてさらに、彼が微塵も予想していなかった「主の復活」が、さらに「ヨセフの新生」を生みだしたのです。

 

ヨセフは「何もかも手放した」が故に「何もかも携える人」となりました。主の復活ハレルヤ!end

 

 

 


2024年3月24日(日)棕梠の主日の講壇前はこんなふうでした とっても美しいです本当に
2024年3月24日(日)棕梠の主日の講壇前はこんなふうでした とっても美しいです本当に

 

2024年3月24

牧師 森  言一郎

 

  『 囲いの外へ  ゴルゴタのイエス 』                                             

【 聖 書 】 

兵士たちはイエスの十字架を無理に担(かつ)がせた。そして、イエスをゴルゴタという所 ―― その意味は「されこうべの場所」― に連れて行った。

      (マルコによる福音書 15章21節後半~22節)

 

 私は「飼い主わが主よ」という賛美歌が好きです。

 

詩編23篇1節の「主は羊飼い」というみ言葉や、ヨハネ福音書10章7節以下「私は良い羊飼い」を思い起こします。ヨハネによる福音書では、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と続くのです。

 

もちろん「羊飼い」とはイエスさまのこと。このことを前提にマルコ福音書15章を味わいます。

 

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ピラトの元で十字架での処刑が決まったイエスさまは、鞭に打たれた後に、「されこうべ=頭蓋骨」を意味するゴルゴタへ十字架を負わされて向かいます。

 

ゴルゴタはエルサレムの中心ではなく城門の外の丘にあります。

 

そこは、さらし者にされる罪人の行きつく処(ところ)ですが、イエスさまがゴルゴタの丘の上で命を捨てられるのは「良い羊飼いだ」からです。主は罪人であることから逃げ出さない。罪人たちと共に終わりの時まで共に居られます。

 

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ゴルゴタへ向かう途中の坂道。イエスさまはキレネ人シモンの力を借りなければ一歩も進めない程に弱り果てました。

 

十字架は重いのです、その重さは、十字架の大きさゆえではありません。エルサレムに入城された子ろばに乗ったイエスを、自分たちの目的達成のために歓呼と共に枝を振って歓迎した人々が手にしたひと枝一枝、人々の罪の重さがイエスを苦しめた。

 

 

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十字架に留まり続けたイエスさまは、罪人と共に死に、罪人たちと共に甦(よみがえ)られます。神の愛はここに極まりました。

 

 

神を信じる者は決して独りぼっちではありません。end

 

 


2024年3月17日(日)礼拝後に、関東地方の大学の大学院に進まれたりょうたさんの送別会を行いました。心血を注いで向き合えるものとの出会いを求めて進んでほしい、とお伝えしました
2024年3月17日(日)礼拝後に、関東地方の大学の大学院に進まれたりょうたさんの送別会を行いました。心血を注いで向き合えるものとの出会いを求めて進んでほしい、とお伝えしました

 

2024年3月17

牧師 森  言一郎

 

  『 徹底して〈ぼんくら〉であること 』                                             

【 聖 書 】 

しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。

            (マルコによる福音書 15章5節)

 

 

バッハのヨハネ受難曲を家で聴くことがあります。その際、私は、「何かここの辺り、気持ちがいい。燃えてくるなぁ」と感じたのが、ユダヤ人たちの合唱・「イエスを殺せ」の歌声の場面だと気付いたことがあります。わが心の闇を見ました。

 

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ローマ皇帝から派遣されたユダヤ・イドマヤ・サマリア地方の総督ポンテオ・ピラト。日頃彼はローマ皇帝からの呼び出しにも即応できるようにカイサリアに身を置いていましたが、ユダヤの祭の時期にはエルサレムの総督官邸に兵士と共にやって来ました。そして人気取りのために罪人を恩赦し釈放するのです。

 

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千代崎秀雄牧師は『型破り聖書日課 聖書の人物365人』(一粒社)の中で、ピラトについて、冒頭の一行目で、「ピラトは、ぼんくらではなかった」と言い切っています。

 

彼は物事の見通しが効かないような馬鹿者ではないのです。むしろ、彼は思慮深くおもんぱかることが出来る人だった。イエスについては、罪を見いだせないことに気付きましたし、ユダヤ人の中でも指導者の立場にあった者たちの腹黒さも知っていました。

 

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この日結局彼が釈放するのはバラバでした。バラバはローマ支配による圧制からの解放を目論んだはずの中心人物ですから、本心ではバラバの釈放などしたくなかったのです。

 

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私たちに必要なのは、小賢(こざか)しさなどではありません。

 

むしろ、ピラトとは逆にぼんくらである事すら求められているのかも知れません。イエスはぼんくらを極め、十字架につけられました。end

 

 

 


2024年3月10日(日)みんなの教会学校の時間 引き渡される夜の場面の名画も紹介されました 説教はりょうこさん担当
2024年3月10日(日)みんなの教会学校の時間 引き渡される夜の場面の名画も紹介されました 説教はりょうこさん担当

 

2024年3月10

牧師 森  言一郎

 

    『 遠く離れて従ったペトロ 』                                             

【 聖 書 】 

ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。

            (マルコによる福音書 14章54節)

 

 

ユダに引き連れられた人々に捉えられたイエスは最高法院に連行されます。

 

マルコは、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ出してしまった」と報告をする一方、ペトロがイエスの後を追ったと告げます。しかし彼は今、イエスさまから「遠く離れて」いるのです。

 

イエスさまのお側(そば)で、手となり足となることこそが、人生の喜びだったはずのペトロは、大祭司の中庭で出くわした人たちの側(そば)で、薄明かりの役目も果たす焚(た)き火にあたるのです。

 

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創世記3章で「食べてはならない」と神さまに命じられていた実(み)を口にしたアダムとエバが、「神の足音を聞いて恐れ、神の顔を避け、木の間に隠れていた」のと何も変わりません。

 

そしてまた、ルカによる福音書15章11節以下にある、「遠い国に旅立ち」放蕩(ほうとう)の限りを尽くしたあの弟息子と父の姿を思うのです。

 

居場所を失った彼が最後に故郷へと向かった時、「まだ、遠く離れていた」のに父親は息子を見つけ、走り寄り、抱擁(ほうよう)します。

 

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数時間後、ペトロは大祭司の中庭で、「今夜、二度鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう」と言われた主のお言葉が、預言通りになってしまう、人生の大敗北を喫することになります。

 

マルコが告げるその時のペトロの様子を、ある英語の聖書は、「he broke down(*break down の過去形) and cried(*「cry=泣く」の過去形)」と表現します。

 

「break down」には「崩壊する、機能停止、駄目になる」という意味があります。

 

しかし神さまは、ポンコツに成り果てたペトロを用いて、やがて教会をお建てになるのです。end

 

 

 


2024年3月3日(日)お世話になった先生の本から引用。みんなの教会学校での時間に
2024年3月3日(日)お世話になった先生の本から引用。みんなの教会学校での時間に

 

2024年3月3

牧師 森  言一郎

 

    『 一筋に  書き続けたわけ  』                                             

【 聖 書 】 

 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

                       (マルコによる福音書 14章50節) 

 

 

とある部屋でのこと。

 

イエスさまは弟子たちと共に過越(すぎこし)の食事を始められました。

 

ところがやがて、過越(すぎこし)の式文にはないことを教え始められたのです。パンを取り、「取りなさい、これは私の体である」と謎めいたことを言われます。

 

さらに続けて、杯(さかずき)を高くあげ、

 

「これは私の血、契約の血である」と宣言されました。弟子たちはあっけにとられます。

 

ましてや、これから起こる十字架の死の出来事など、微塵も想像することができません。

 

        **************

 

弟子たちは「あなたがたは皆つまずく」と言われても、「自分だけは大丈夫」と思いました。

 

ペトロは、「今夜、鶏が二度泣く前に私を三度否む」と突き放されますが、かえって強い決意をいだき、「私だけは大丈夫です」と言い張ったのです。

 

結果として、「祈っていてくれ」と命じられた彼らは、誰一人、目を覚ましていることができません。

 

         **************

 

イエスさまは、「立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た」と言われ、ユダに引き連れられてくる一団の前に進み行かれます。

 

この時、強い決意をもって、「私だけは、終わりまで主に従います」と誓った弟子たちはどうしたのか。

 

結果は惨めでした。

 

何もかも捨ててイエスに従ってきた弟子たちでしたが、今度は、イエスさまのことまで捨てたのです。それが人間のあからさまな現実でした。

 

          **************

 

 

最初の福音書記者マルコは、このような弟子たちの姿を、ためらうことなく赤裸々に描きます。少しも取り繕わない。

 

私はここに福音が福音としての力をもって躍動し始めていると思うのです。end

 

 

 


2024年2月25日(日)礼拝の中でのみんなの教会学校、光代さんが善きサマリア人の譬え話から語られていたとき、目に留まった、賛美歌と聖書。私たちの人生を支えてくれるいのちの二冊
2024年2月25日(日)礼拝の中でのみんなの教会学校、光代さんが善きサマリア人の譬え話から語られていたとき、目に留まった、賛美歌と聖書。私たちの人生を支えてくれるいのちの二冊

 

2024年2月25

牧師 森  言一郎

 

    『 フィリポ・カイサリア  にて  』                                             

【 聖 書 】 

 私の後(あと)に従いたい者は、

  自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。

                       (マルコによる福音書 8章34節) 

 

イエスさまはこのお言葉をフィリポ・カイサリアで語られました。イエスが宣教に出かけられた場所で最も北に位置する町です。

 

カイザルとも呼ばれたローマ皇帝にゴマをすり、領主フィリポの名と合わせた名前の地でした。この世の知恵と権力が物言う処(ところ)で、顔を固めて十字架に向けて歩き出されるイエスは、弟子たちの覚悟を問われます。

 

          **************

 

マルコ福音書の1章では、「我に従い来たれ」との招きを受け、漁師たちが網(あみ)を捨ててイエスに従いました。

 

彼らはイエスさまのお側で教育を受け、伝道の旅に遣わされ、経験を積んだのです。

 

          **************

 

そして直前には、世の人々の噂ではなく、「あなた方は、私を誰だと言うのか」と問われます。

 

ペトロは代表して「キリストです」と答えました。それは正しい答えなのです。

 

しかし、主であるイエスが苦しみを経て、死んで三日目に復活すると語り始めた時、ペトロはイエスを脇へ引き出して諫(いさ)めます。

 

すると、「サタン、引き下がれ」と叱り飛ばされたのです。

 

救いの道はまだ見えていません。

 

          **************

 

ここには、クリスチャンとはどのような人のことなのかについての結論があります。

 

「自分の十字架を背負って従う」覚悟が必要です。自分の運命的な重荷のことだけが言われているのではない。

 

時が良くても悪くても、キリストの苦しみにあずかり、イエスさまが担われようとされた時代の重荷、隣り人(びと)の重荷も含めて、悩み苦しみながら生きて行く人。

 

それがクリスチャンなのです。end

 


2024年2月17日(土)午後5時過ぎ 玄関屋根の塗装工事の仕上がりぶりを撮影 復活の命が注ぎ込まれました!
2024年2月17日(土)午後5時過ぎ 玄関屋根の塗装工事の仕上がりぶりを撮影 復活の命が注ぎ込まれました!

 

2024年2月18

牧師 森  言一郎

 

    『 マルコ福音書 はじめに 』                                             

【 聖 書 】 

    わたしについて来なさい。

                    (マルコによる福音書 1章17節) 

 

福音書を最初に生みだしたのはマルコでした。それより前にパウロの手紙は存在しましたが福音書はなかったのです。

 

マルコ福音書の顕著(けんちょ)な特徴として「クリスマスの出来事がない」ことがあげられます。マルコ福音書が全16章とコンパクトな理由もそこにあります。

 

マルコはイエスさまの誕生の物語の中に、救いの福音の本質を示すものはないと考えた、と申し上げてもよいと思います。

 

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マルコが伝えようとした福音の根幹にあるのは、きょうのみ言葉の「悔い改めて福音を信じる」ということです。

 

「悔い改め」の前には「誰でも」が補われるべきでありますし、「信じて」のあとには「従う」ことが求められます。

 

イエスさまの宣教の第一声の後にあるのは、ガリラヤ湖畔に生きていた無学な四人の漁師たちへの招きでした。

 

**************

 

2月4日、上島 一高(かみじま かずたか)先生がお出でになった時の説教題は、『何もかも手放し 何もかも携(たずさ)えてゆこう』でした。

 

私はその説教題に心打たれ、いつか同じ題で説教できるようになりたいと思うようになりました。

 

漁師として生きていた彼らは、生業(なりわい)を支えてきた網を手放したのです。

 

そんなことをして、生きてゆけるのでしょうか。実に、「悔い改めて福音を信じる」とは、「何もかも手放し、何もかも携(たずさ)えて生きてゆく」ことなのです。

 

**************

 

イエスさまに従い歩みだすとき、いつしか私たちは新しくされます。そこに必ず変化が生じるのです。

 

山あり谷あり、裏切り、逃げ出す私たちです。十字架と復活も起こります。

 

でも、「イエス・キリストの福音の初め」は、ここが先ずはスタートなのです。end

 

 


2024年・春 教会前を往き交う人びとへ 招きのことば
2024年・春 教会前を往き交う人びとへ 招きのことば

 

2024年2月11

牧師 森  言一郎

 

    『 さすらう者へを愛する神 』                                             

【 聖 書 】 

    私の父はさすらいのアラム人でした。

                        (申命記 26章5節 新改訳 2017より 

 

神さまはモーセを通じて、間もなく約束の地・カナンでの暮らしが始まろうとしている民に対して「礼拝」の根本をお示しになります。

 

先ず、教えられたのは「初穂」を捧げることの大切さであり、そこに伴う「報告」という形での〈祈り〉でした。

 

**************

 

「信仰告白」は礼拝の中で欠かせない要素です。

 

出エジプトの民は、そこに三つの「告白」を含めるように教えられます。具体的には「選び」・「救い」・「約束の成就」の三つでした。

 

第一の「選び」について「私の先祖は、さすらう者であった」という回顧を伴う感謝の告白があります。

 

さらに、第二と第三の「救い」と「約束の成就」は密接に関係するものです。天にまで届くような人間の叫びと苦しみを見過ごしにはなさらない神は、「労苦からの解放」と「嗣業の地」をくださるのです。

 

**************

 

これら三つが含まれた「信仰告白」の土台にあるのは、今日(きょう)の申命記26章18節にある「宝の民」として慈しんで下さる神の愛です。

 

「宝物」として愛されるお姿は、先ず、出エジプトが始まって間もない、シナイ山での契約の言葉に見られます。

 

出エジプト記19章5節で「あなたたちは全ての民の間にあって私の宝となる」と語られるところに起源があります。

 

**************

 

「宝」として愛される幸いを知った者は、もはや約束の地において自己本位に生きることをしません。

 

宗教者に専念し、生産手段を持たない「レビ人(びと)」。そして「寄留者・孤児・寡婦」と共に生きるのです。

 

私たちの礼拝から始まる暮らしはそのような視点を見失ってはいないでしょうか。受難の始まりの直前、主イエスはレプトン銅貨二枚を捧げた女を尊(たっと)ばれました。end

 

 


2024年1月28日 創立121周年記念の聖餐礼拝にて  聖餐卓に準備されたパンとぶどう酒です
2024年1月28日 創立121周年記念の聖餐礼拝にて 聖餐卓に準備されたパンとぶどう酒です

 

2024年1月28

牧師 森  言一郎

 

     『 み言葉を生きる人へ 』                                             

【 聖 書 】 

み言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

(ヤコブの手紙 1章22節)

 

 

聖書は生き方上手になるための〈ハウツー〉が示される単なる手引書ではありません。

 

ヤコブが語るように、「人は誰でも、聞くに速く、語るに遅く、怒(おこ)るに遅くあるべきです」という教えを社会生活の中で実践できるならば、少しは良い人になれるかも知れない、と考えてしまいそうになります。

 

でも、それは違います。大前提があるのです。

 

         **************

 

ルカ福音書19章にある徴税人の親分「ザアカイの物語」を思い起こしました。彼は罪人(つみびと)の烙印を押されていた人でした。

 

エリコにやってこられたイエスさまは、いちじく桑の木に登っていたザアカイの下(もと)にやって来て、「今日はあなたの家に泊まらねばならない」と仰ったのです。

 

         **************

 

ザアカイは木から急いで降りて来てイエスさまを「お迎え」します。聖書にはザアカイとイエスさまがどんな風に時を過ごしたのかはひと言も触れられていません。

 

でも、その後のザアカイの決心の様子を見ると、彼はイエスさまに「自らの苦しみや汚(けが)れ、あふれる程の悪を、全て聴いて頂いた」のだと思います。

 

そのことが「み言葉であるイエス」を人生の真ん中に迎え入れるための大前提なのです。

 

         **************

 

ヤコブは続けて「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人」について語ります。

 

「律法」は「み言葉」と置き換えて理解します。それをしっかりと「守る」(*パラメノー)とは、「側(そば)に留(とど)まる」「近くに居続ける」「固守する」ということです。

 

み言葉である主イエスから離れずに留(とど)まり、側(そば)に在(あ)り続ける生き方が求められます。

 

 

その第一歩は礼拝で示されるみ言葉に聴き従うことです。end

 

 


2024年1月21日 光代さんは『聖書から出た 日本語100』を教会図書から紹介して下さるみんなの教会学校のメッセージをして下さいました。公洋さんもお手伝い下さって皆さんにもよくみ言葉がみえました(^^♪
2024年1月21日 光代さんは『聖書から出た 日本語100』を教会図書から紹介して下さるみんなの教会学校のメッセージをして下さいました。公洋さんもお手伝い下さって皆さんにもよくみ言葉がみえました(^^♪

 

2024年1月21

牧師 森  言一郎

 

『〈カナの婚礼〉から始まったこと』 

                                                            

【 聖 書 】 

しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。

  (ヨハネによる福音書  2章5節)

 

「ガリラヤのカナの婚礼」は、イエスさまによって「水がぶどう酒に変えられた最初のしるし」の場面として知られます。

 

これはヨハネ福音書だけに収められている不思議な出来事です。

 

         **************

 

この場面を読むとき、心に留めたいことが一つあります。それは「最初のしるし」が起こる文脈です。

 

私が大切だと考えるのはイエスさまに従いだして間もない弟子たちがそこに居合わせている点です。

 

アンデレ、やがてペトロと呼ばれるシモン、フィリポとナタナエルまでもが祝いの席に招かれ、結婚式ならではのご馳走やぶどう酒を口にしました。

 

         **************

 

弟子たちは婚礼の席に不可欠な「ぶどう酒」が足りなくなった時の、マリアとイエスの会話も知っていたと思います。

 

何より、主イエスの「水瓶(みずがめ)に水を一杯に入れなさい」というお言葉に従った召し使いの働きも、弟子たちの心に深く刻まれたはずです。

 

イエスさまに従いだした弟子たちは訓練を受け始めているのです。彼らはここから、様々なしるしを直(じか)に見ながら育てられて行きます。

 

         **************

 

大きな「清めの六つの水がめ」を縁(ふち)まで満たすために「召し使いたち」は黙々と仕えました。その無言の奉仕の先に「最初のしるし」が起こるのです。

 

彼らの有り様は私たちの教会生活の中での様々な奉仕者の姿と重なります。

 

受胎告知の場面で、「お言葉通り、この身になりますように」と告白したマリアも同様です。

 

私たちには黙々とイエスさまのお言葉に従う生き方が求められているのです。

 

         **************

 

弟子たちはやがて目が開かれます。

 

時が満ちた時、十字架に掛かってご自身を捧げ尽くされた主イエスこそが最大の奉仕者であったことに。end

 

 


2024年1月14日 久美さんはみんなの教会学校で能登半島地震の被災地のことも覚えつつ語って下さいました。エゼキエル書14章23節(新改訳)「このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべての事はゆえもなくしたのではないことを知ろう。――神である主の御告げ。――」が与えられた経験を分かち合ってくれました。
2024年1月14日 久美さんはみんなの教会学校で能登半島地震の被災地のことも覚えつつ語って下さいました。エゼキエル書14章23節(新改訳)「このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべての事はゆえもなくしたのではないことを知ろう。――神である主の御告げ。――」が与えられた経験を分かち合ってくれました。

 

2024年1月14

牧師 森  言一郎

 

『 〈 背信の大罪 〉を越えて 』 

                                                            

【 聖 書 】 

この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず足が腫れることもなかった。(申命記 8章4節)

 

出エジプトを果たし、約束の地カナンを目前にしているイスラエルの民に対して、神さまはモーセを通じて、「荒れ野の40年」の旅路の意味を考えさせる時をもたせます。

 

その40年は、「あなたの心にあることを知り」「神の言葉を守るかどうか」を「試す」「訓練の時」だったと告げるのです。

 

**************

 

私はこの箇所を読むとき、ネヘミヤ記9章と合わせて読んでみたいと思いました。

 

旧約の民の歩みを俯瞰(ふかん)し、出エジプトの民の歩みを、私たちキリスト者の問題として考えさせてくれる箇所だからです。

 

**************

 

ファラオの追跡を逃れた民は飢えと渇きに直面してつぶやきました。

 

彼らは実に安易に、「エジプトの苦役に戻ろうと考え」、不安になると、「牛の像を鋳て造り、エジプトから救ってくれた神だ」と恥ずかしげもなく称する民でしたが、神さまは「命のパンであるマナ」を降らせ荒れ野を導き行かれました。

 

ネヘミヤ記9章だけで用いられるみ言葉に「背信の大罪を犯す」(18節、26節)があります。

 

神さまは忍耐し、導かれたのです。

 

**************

 

 

ネヘミヤ記9章21節に今日(きよう)の申命記8章4節とよく似たみ言葉、「四十年間、あなたが支えられたので彼らは荒れ野にあっても不足することなく着物は朽ち果てず足も腫(は)れることがなかった。」があります。

 

さらに、ネヘミヤ記9章では「しかし」という言葉が何度も繰り返されることにも気付きます。

 

**************

 

「聖書の民」とは、背きの大罪を犯し、神の憐みを直ぐに忘れてしまう人のことなのです。

 

神が御子を世に遣わされた理由がここにあります。

 

これが私の救いのためであることを信じる人は、新しい道を生き始めます。悔い改めて、福音を信じましょう。end 

 

 


2024年1月7日 久美さんが旭東教会オリジナル・「福音くじ」にスタンプするのに本当に助かる消しゴム印を作ってきてくれました。素晴らしい神さまへの捧げ物、というわけで聖餐卓に捧げました!
2024年1月7日 久美さんが旭東教会オリジナル・「福音くじ」にスタンプするのに本当に助かる消しゴム印を作ってきてくれました。素晴らしい神さまへの捧げ物、というわけで聖餐卓に捧げました!

 

2024年1月7日・新年礼拝

牧師 森  言一郎

 

『 ナザレの若枝  イエス 』 

                                                            

【 聖 書 】 

「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

(マタイによる福音書 2章22節~23節)

 

 

 

マタイは旧約聖書との関係を重んじる人でした。だからこそ1章の「系図」が、マタイ福音書には必要でした。

 

旧約聖書に精通しているユダヤ人に、マタイはイエス・キリストによる救いの到来を説得力のある形で伝え始めたのです。

 

**************

 

占星術の博士たちへのイエスの公現後、ヨセフ・マリア・イエスの「聖家族」は、お告げによってエジプトへ逃避します。ヘロデ大王による二歳以下の男児の虐殺の狂気をかいくぐったのです。

 

そして、再びお告げによってユダヤに戻って落ち着くのが、旧約にはその名が一度も出てこない「ナザレ」でした。

 

**************

 

大変遅ればせながら、去年のクリスマス、私はマタイが特に重んじている『イザヤ書』の中に、「ナザレ」が秘め置かれていることを知りました。

 

まず、11章1節に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝(わかえだ)が育ち」とあるのです。この「若枝」が重要です。「若枝」の原語はヘブル語で「ネーツェル」と言います。その語根は確かに「ナザレ」なのです。

 

**************

 

さらに私は、この「若枝・ネーツェル」が「動詞形・ナァツァル」で記され、イエスの誕生・救いを告知していると読める預言の言葉が、イザヤ書48章6節にあることを知ったとき、心が躍りました。

 

そこには「私は今から、新しい事、あなたの知らない隠された事をあなたに聞かせよう」とあるのです。

 

イエスこそ秘められた救いの成就・到来です。

 

**************

 

 

ナザレの「若枝」が「隠された事」ではなく、世に現れ、「私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」(マタイ17:5)という存在として世に告知され始めたのがクリスマスの出来事なのです。end

 

 

 


2023年12月31日 歳晩礼拝のみどり子イエスでは森牧師が『ミシュカ』を朗読。ミシュカに見る「献身」を考えよう、と始めに語りました。泣いてばかりいた熊のミシュカが少女の家を飛び出して「旅」にでる場面です。
2023年12月31日 歳晩礼拝のみどり子イエスでは森牧師が『ミシュカ』を朗読。ミシュカに見る「献身」を考えよう、と始めに語りました。泣いてばかりいた熊のミシュカが少女の家を飛び出して「旅」にでる場面です。

 

2023年12月31日・歳晩礼拝

牧師 森  言一郎

 

『 捧げるクリスマスの喜び 』 

                                                            

【 聖 書 】 

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。      (マタイによる福音書 2章10節~11節)

 

 

救い主の到来は先ず、星の観測を熱心に行っていた「東方の博士たち」に届きました。「東」とは異邦の地を意味しています。聖書の舞台であるユダヤ地方ではなく異邦人にその知らせが届いたのです。それは神さまの必然でした。

 

博士たちは聖書の原文では「マゴス」で、「占い師」「魔術師」を指す語が使われます。旧約の律法に照らし合わせると、彼らは忌み嫌われる「罪人」なのです。でも、救いは彼らを通じて明らかにされます。

 

          **************

 

この異邦人に告知される救い主の誕生の事実は、マタイ福音書1章で、み使いが夢の中に現れてヨセフに知らせた言葉に連動しています。「この子は自分の民を罪から救う」の「自分の民」とは異邦人が含まれるのです。

 

復活のイエスがマタイ福音書の最後で弟子たちに告げた宣教命令に、「あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい」とあります。「全て」には例外はないのです。

 

          **************

 

博士たちが幼子イエスにひざまずいた時、「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とありました。クリスマスの意義を考える時、彼らの姿勢に倣うべきことがあることに気付くのです。

 

          **************

 

アメリカの作家O・ヘンリーの珠玉の短編『賢者の贈り物』の最後に博士たちを「賢者」と紹介しますが、その前に、年若い貧しき夫婦が自分に与えられた最も大切なものを互いのために手放す物語があります。

 

そこには彼らの献身があるのです。

 

今年のクリスマス、あなたは救い主イエスのために何を手放し、捧げましたか? end

 

 


2023年12月24日 クリスマス礼拝のひとこま 荒れ野の羊飼いたちがベツレヘムにたどり着く場面の絵本 くみさん朗読中
2023年12月24日 クリスマス礼拝のひとこま 荒れ野の羊飼いたちがベツレヘムにたどり着く場面の絵本 くみさん朗読中

 

2023年12月24

牧師 森 言一郎

 

『  ベツレヘムから〈荒れ野〉 』 

                                                            

【 聖 書 】 

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた。

(ルカによる福音書 2章6節~8節)

 

マルティン・ルターの『クリスマス・ブック』という本があります。皇帝アウグストゥスの勅令を受け、ヨセフがわざわざ身重のマリアを連れてナザレからベツレヘムへ向かった理由についてルターはこう語ります。

 

「自分の留守中マリアと一緒に暮らして面倒をみてくれるように人を頼むことが出来なかった。ヨセフの貧しさの程も察せられる」と。彼らは本当に小さく貧しかったのです。

 

           **************

 

ベツレヘムの宿屋でヨセフとマリアを受け入れなかった人たちが居りました。

 

私たちは、自分ならばそんな可哀相なことはしない、と考えてしまいそうです。

 

でも、我々は、生まれ来るみどり子が救い主イエスであるということを知っているのです。だから別の態度をとれると思うのではないか。

 

           **************

 

キリスト降誕の告知はベツレヘムから一転します。寒空の「荒れ野の果て」で、夜通しの番を凍(こご)えながらしている羊飼い達が登場するのです。

 

救いの到来の告知が「荒れ野」であることには深い意味があります。聖書の中の一番最初の「荒れ野」はどこに描かれているのだろうかと思い、探してみました。

 

ありました。

 

**************

 

表現は全く異なりますが、最初の書・『創世記』で「光あれ」の言葉が発せられる「地」は「混沌」だった。『新改訳 2017』の訳では「茫漠(ぼうばく)」です。

 

「茫漠(ぼうばく)」の意味をていねいに調べました。「存在感が無く、有るか無いか分からない、光が当たらない地」のことでした。

 

キリストはそこを選んでお出で下さったのです。end

 


2023年12月17日  アドヴェント・待降節も第3のろうそくまで灯されました。主イエスが近い!
2023年12月17日 アドヴェント・待降節も第3のろうそくまで灯されました。主イエスが近い!

 

2023年12月17

牧師 森 言一郎

 

『  眠りから起き上がった人 ヨセフ 』 

                                                            

【 聖 書 】 

ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

   (マタイによる福音書 1章24節~25節)

 

もしもイエスの父親の役目を担うことになるヨセフが言葉の人であったならば、彼の語ったことが四つの福音書のどこかに、一つくらいは記録されていたはずです。

 

しかし、ヨセフの言葉は聖書には何一つ残っていません。マリアの聖霊による妊娠の報に触れ、彼は逡巡(しゅんじゅん)したのです。

 

彼が身につけてきた正しさの基準、即ち、「律法・教え・戒め」に照らし合わせると、身動きできなかった。

 

**************

 

ところがこのとき、「聖霊」が働きました。それは「正しい人ヨセフ」の根幹を揺すり動かす力でした。

 

この箇所、原文を直訳すると、「ヨセフが眠りから立ち上がると」という訳が可能です。「眠りから覚めた」とは書かれていません。彼は「起き上がった」のです。

 

「聖霊」によってヨセフに灯された、確かな力、ともしびが見えます。ヨセフの外見は何も変わりません。

 

**************

 

しかし、ヨセフはこれから先の彼を規定する新しい正しさを聖霊によって身に帯びたのです。これまでのヨセフを規定していた「原理原則」とは異なるものに信頼して歩きだすのです。

 

古いヨセフは死に、新しい人が生まれました。彼はスキャンダル・躓きを身に帯びて生きていく覚悟を決めたのです。

 

**************

 

 

寡黙なヨセフの存在があったからこそ、マリアはマリアになっていきました。ヨセフは直面する苦悩も含めて、これが自分に備えられた道だと信じ、いさぎよく引き受けた人だったのです。

 

ヨセフの上に、聖霊という名の風が吹き抜けました。end

 

 

 


2023年12月10日  みんなの教会学校で新たに賛美し始めることになった賛美歌をPowerPointを用いて、わかりやすく指導される寿子さん 感謝です
2023年12月10日 みんなの教会学校で新たに賛美し始めることになった賛美歌をPowerPointを用いて、わかりやすく指導される寿子さん 感謝です

 

2023年12月10

牧師 森 言一郎 

『  マリアの 賛歌 それは 祈り です  』 

                                                            

【 聖 書 】 

そこで、マリアは言った。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。 

          (ルカによる福音書 1章46節~48節)

 

「お言葉通りこの身になりますように」と告白したマリアは、寒村ナザレから100㎞離れていた「ユダの町」にエリサベトを訪ねます。100㎞は決して近くはないのです。

 

聖書には、わざわざ、「マリアは歩いてユダに向かった」とは書かれていません。でも、公共交通機関もないその当時、歩いて行くしかないのです。その「道」がマリアには必要でした。

 

私はそこに祈りがあったと考えます。

 

         **************

 

エリサベトはマリアを家に迎えたとき、「声高らかに言った」とあります。「声高らか」は〈歌うエリサベト〉を想起させてくれます。

 

実にこの歌声に導かれて「マリアの賛歌」が始まったのです。「主を崇(あが)める」という言葉から転じて、「マグニフィカート」と広く知られるようになりました。

 

         **************

 

マリアはどんな風に、「名も知れぬ娘を主はあえて選び、御子の母として用いられる」(讃美歌21-178)と喜びを歌ったのでしょう。

 

注意深く聖書を読み直しますと、二つの言葉が浮かび上がってきます。マリアは「私の魂」・「私の霊」は「神を喜び讃える」とあるのです。

 

         **************

 

「魂」と「霊」による歌は大声による賛美を意味しません。「マニフィカート」はサムエル記上1章~2章にある、やがてサムエルの母となるハンナの、「主のみ前に心からの願いを注ぎ出す」に原点があります。

 

「賛美」とは神のみ前に注ぎ出す「祈り」でもあるのです。

 

         **************

 

 

この自覚を持つとき、私たちの日々が変わり始めます。

 

ぜひ、お家(うち)でも賛美歌を歌って下さい。end

 


2023年12月3日  ヤン・ピエンコフスキーの『クリスマス』より ナザレのマリアへの福音をみんなの教会学校で語る森牧師
2023年12月3日  ヤン・ピエンコフスキーの『クリスマス』より ナザレのマリアへの福音をみんなの教会学校で語る森牧師

 

2023年12月3

牧師 森 言一郎 

『  ナザレのマリアへの福音によって  』 

                                                            

【 聖 書 】 

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。

          (ルカによる福音書 1章26節~27節)

 

 

私はポーランド出身のヤン・ピエンコフスキーが影絵で画いた絵本『クリスマス』に登場するマリアが好きです。鶏が歩き回る庭で、エプロンをし、洗濯物を干しているマリアはごく普通の娘です。その姿は生き生きしています。受胎告知の舞台はガリラヤの寒村・ナザレでした。旧約にその名が一度も出て来ない。それが「ナザレ」なのです。

 

       **************

 

神さまは世に少しも名も知れぬ娘を選ばれた。

 

そこには、神さまの重大な決心が垣間見えます。大胆に申し上げるならば、神さまの「悔い改め=方向転換」と言えるかも知れません。

 

       **************

 

「ナザレのマリア」は、ルカ福音書の冒頭に登場するエルサレム神殿に仕える祭司ザカリアとエリサベトという老夫婦と対照的です。

 

彼らは、「律法に忠実な非のうちどころがない義人」として紹介されますが、マリアにはそのような情報は一切ありません。

 

        **************

 

ザカリアとエリサベトには「洗礼者ヨハネ」と呼ばれるようになる息子が与えられます。イエスの先駈け、最後の預言者として荒れ野の声となります。

 

ヨハネだけでなく、彼らも、旧約と新約の橋渡し役を務めるのです。そして、二人の存在は「主のはしためマリア」を支えて行くのに不可欠でした。

 

        **************

 

 

マリアに臨んだのは、「襲いかかるように突然降って来た聖霊の力」でした。マリアは聖霊に包まれ、生涯変えられ続けて行った人なのです。

 

クリスマスは、生まれ変わる人を求めます。end

 


2023年11月26日 みんなの教会学校ではこの絵本が紹介されました。カナの婚礼です。プロジェクター奉仕も縁の下の力持ち。
2023年11月26日 みんなの教会学校ではこの絵本が紹介されました。カナの婚礼です。プロジェクター奉仕も縁の下の力持ち。

 

2023年11月26

牧師 森 言一郎 

『  苦しみよどんと来い  』 

                                                            

【 聖 書 】 

良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。

                    (ヤコブの手紙 1章17節)

 

 

ヤコブ書はマタイ福音書に似た所があります。原文の躍動感を生かした塚本虎二先生の名訳では、12節は「“幸福(さいわい)なるかな”、試練に“耐える”人」とあります。

 

これは山上の説教が語られるマタイ福音書5章の「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」(文語訳)と同じ語調です。

 

試練と誘惑と戦う者に対しての励ましが必要だった当時のキリスト者の事情があったのです。

 

**************

 

この箇所を読むときに思い出したいみ言葉があります。

 

ヘブライ書2章の終わりの、「(キリストは)御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」とあることを心に留めましょう。

 

「キリスト教の神の特質は神との一体性だ」と(英国の聖書学者)バークレー先生は言われます。これは「神われらと共に」を意味すると理解できるのです。

 

詩篇119編71節を口語訳で読んでみます。「苦しみにあったことは、私に良い事です」とあります。主が私たちといつも共にあることを信じて生きる者は、「苦しみよどんと来い」となれるのです。

 

**************

 

ヤコブは「欲」についても触れます。欲は人間に必要なものです。「食欲」も然り。より良い人間関係を求める「向上心としての欲」も大切です。

 

しかし「欲」が「自己目的の欲望」と成り果てる時、人は罪に陥ります。

 

**************

 

神は私たちに必要な「よい贈り物」「完全な賜物」をご自分の元から手放される決心をされます。それがキリストの来臨として明らかになるのがクリスマスです。

 

 

今年もイエスさまの来臨に備える時が巡って来ます。end

 


2023年11月12日 子ども祝福礼拝にて 生まれて二ヵ月の「空穏(くおん)ちゃん」が来てくれました。パパに抱かれてます。
2023年11月12日 子ども祝福礼拝にて 生まれて二ヵ月の「空穏(くおん)ちゃん」が来てくれました。パパに抱かれてます。

 

2023年11月12

牧師 森 言一郎 

『  こんな風に生きて行こうよ  』 

                                                            

【 聖 書 】 

四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

(マルコ福音書 2章3節~4節)

 

戸口の前に大勢の人が壁のように立ちはだかり、これではイエスさまに会うことが出来ないと考え、屋根を引っぱがしてしまうという、非常識な行動をとった人たちがいました。

 

イエスさまは彼らの「何をご覧になった」のでしょう。

 

 

聖書はこう告げます。「イエスはその人たちの信仰を見た」と。「その人たち」とは中風の人を運んで来た4人も併せ、総勢5人ということになります。

 

**************

 

しかも、イエスさまの話を聞こうとしてやって来ていた、律法の専門家たちが顔色を変えていきり立つことも承知の上で、こう言われたのです。「子よ、あなたの罪は赦される」と。

 

今度は、イエスさまの方が非常識な言葉を口にされました。なぜなら、律法学者たちが言うように、神にしか出来ないことをイエスさまが言葉にされたからです。遠慮気味にコソッと言われたのではありません。

 

「ことは成就している」という宣言でした。 

 

**************

 

イエスさまに対する「信仰」をここでは「信頼」と読むことが出来ます。

 

この信頼が、個人的な修行や努力だけで実践できるのか、というと違います。私はここに「教会」というものの姿が浮かび上がって来るのを感じて嬉しくなるのです。個人プレーではない、みんなで共にという生き方です。

 

**************

 

イエスさまの救いの宣言は口だけのものではありません。

 

 

御自身が十字架で傷つき、命を捧げられることが既にここで予告されているのです。end

 

2023年11月5日  聖徒の日の礼拝・墓前の祈りを終えて十文字平和教会に到着の午後3時過ぎ、お庭の紅葉が見事でシャッターを押してもらいました。
2023年11月5日 聖徒の日の礼拝・墓前の祈りを終えて十文字平和教会に到着の午後3時過ぎ、お庭の紅葉が見事でシャッターを押してもらいました。

 

2023年11月5

牧師 森 言一郎 

『  父は、二人を共に愛している  』 

                                                            

【 聖 書 】兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 (ルカ福音書 15章28節)

 

 

 

二人の兄弟の譬え話は私たちに対して何を問うのでしょうか。

 

放蕩の限りを尽くし、あまりにも身勝手な形で帰って来た弟息子だけの物語がここにあるのではありません。間違いなく兄も居ます。

 

私たちは、兄さん息子と父親の関わり合いの物語からの呼びかけにも聴くように促されるのです。

 

**************

 

ここに登場する父とはイエスさまのことであり、父なる神のことです。その父は誰を愛しているのでしょう。

 

一見すると、ルカ福音書の15章の冒頭に姿を見せる徴税人や罪人たちが弟息子であり善であること。

 

イエスを追い詰めようとしているファリサイ派や律法学者たちは兄さん息子で悪であると言われている、と勘違いしそうです。

 

**************

 

父親は、弟息子だけを外に出て迎えたのではないのです。

 

兄さん息子が、弟を弟として認めることを放棄し、腹を立て家に入ろうともしないとき、父は間違いなく外に出て来てなだめています。

 

兄も愛されているのです。宝なのです。日頃から真面目に、誠実に、教えを守る兄のことも大切だと認めているのです。兄はそのことに気付きません。

 

**************

 

目の前に張り付いた四角四面の物差しが兄さん息子の人生の豊かさの邪魔をしています。

 

兄は、自分のように父の教えを決して踏み外すことなく、律法に忠実に生きている者だけが到達できる世界があると思い込んでいました。

 

でも、人は目から鱗が落ちる経験の中で人生が変えられて行くのです。聖書はそれを悔い改めと呼びます。

 

**************

 

私たちは今、兄弟達の物語の続編を生きているのです。end

 

 


2023年10月29日  旭東教会では礼拝の中にプログラムされている〈みんなの教会学校〉ですが、いつもを心を込めて、ネフェシュ・魂を込めて、一所懸命に奏楽して下さっている紀子さんです。手話賛美の「キリストの平和」の場面だと思います。シャッターを切る一瞬が与えられました。感謝
2023年10月29日 旭東教会では礼拝の中にプログラムされている〈みんなの教会学校〉ですが、いつもを心を込めて、ネフェシュ・魂を込めて、一所懸命に奏楽して下さっている紀子さんです。手話賛美の「キリストの平和」の場面だと思います。シャッターを切る一瞬が与えられました。感謝

 

2023年10月29日

牧師 森 言一郎 

『  試練の時  主にすがろう  』 

                                                            

【 聖 書 】 

私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。

      (ヤコブの手紙 1章2節)『新改訳 2017』より

 

「ヤコブ書」は挨拶の言葉を終えると、いきなりと言って良い程に、我々が人生のどこかで遭遇する「試練の時」の生き方について簡潔な言葉で問うのです。

 

それは、「一体、どうしたらそんなことが出来るの」とつぶやきたくなるような言葉に見えます。「様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい」と促すからです。

 

**************

 

さらにヤコブは、「試練から忍耐が生じる」と続けるのですが、その辺りの言葉を直訳的にお伝えするならば、「忍耐を十二分に働かせよ」が真意なのです。

 

そしてその先において、「あなた方は完全な者となれる」とまで言い切ります。

 

「馬鹿なことを」と反発したくなります。でも、事実そう書かれている。ヤコブは試練の中に身を置くとき、心が定まらないで浮き足立つ私たちを見抜き、二心(ふたごころ)をやめて、「知恵を求めよ」と諭すのです。

 

**************

 

 

聖書の原語で「知恵」は「ソフィア」です。「知識」とは別のものです。

 

「知恵」を国語辞典で調べると、「執着や愛憎(あいぞう)など、煩悩(ぼんのう)を消滅させ、真理を悟る精神の働き」とあります。

 

嬉しいことに知恵の類語として「ロゴス」という言葉を発見しました。「初めに言(ことば)があった」(ヨハネ福音書1章)の「言」がロゴスなのです。

 

言い換えれば、「イエス・キリスト」のこと。我々の福音の道標(みちしるべ)です。

 

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主イエス・キリストは、今日も私たちと共に「試みにあわせず悪より救い出(いだ)したまえ」と祈って下さいます。

 

 

主にすがり、主と一体となって祈り続けましょう。やがて、私たちは完全になります。end

 

 


2023年10月22日 礼拝の中の、みんなの教会学校の時間、闘病の日々についてインタビューを受ける高広さんです。ガン哲学外来のことなども含め広くお話下さいました。突然のお招きに応えて下さり感謝でした。
2023年10月22日 礼拝の中の、みんなの教会学校の時間、闘病の日々についてインタビューを受ける高広さんです。ガン哲学外来のことなども含め広くお話下さいました。突然のお招きに応えて下さり感謝でした。

 

2023年10月22日

牧師 森 言一郎 

『  神さまは石ころを必要とする  』 

                                                            

【 聖 書 】 

主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。(申命記 7章7節)

 

 

神さまの「選びと招き」は人の思いを超えて不思議です。

 

旧約の申命記7章で「出エジプトの民」に語られたのは「あなたがたの貧しさ、小ささが私を激しく動かした」というものでした。

 

その選びに見いだされる主の愛は、新約にも貫かれます。

 

         **************

 

マルコ福音書12章でイエスが語った「ぶどう園と農夫の譬え話」では、ご自身が十字架の上で殺され、石ころのように捨てられることを暗示されます。

 

詩編118篇の預言的なみ言葉、「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主のみ業 私たちの目には驚くべきこと」を引用されたのです。そこには救いの道が隠されていました。

 

         **************

 

使徒言行録4章にも関連する見逃せない場面があります。ペトロは聖霊降臨の出来事の後(のち)に議会に連行されました。彼は元々は漁師で、無学で普通の人なのです。にも関わらず、ペトロは復活の主を大胆に説教し人々を驚かせます。

 

そしてそこでも、「我らの主イエスはあなたがたが捨てた石ころだが隅の親石となった」と語るのです。キリストの教会は、「石ころイエスが私たちを支えている」という福音を見出し、自覚を持って語り続けたのです。

 

省みれば、主が飼い葉桶にお生まれになったことも、貧しく・小さな人々に、救いが宿ることの象徴だったことに気付かされます。

 

          **************

 

教会は石ころが集められ、石ころイエスに支えられて本物になっていくのです。

 

私たちも石ころに過ぎない存在ですが、その事を誇りましょう。end

 

 


2023年11月号の『信徒の友』にて紹介された旭東教会の「教会リノベーション・長く用いていくために旭東教会」という記事を紹介する森牧師。
2023年11月号の『信徒の友』にて紹介された旭東教会の「教会リノベーション・長く用いていくために旭東教会」という記事を紹介する森牧師。

 

2023年10月15日

牧師 森 言一郎 

『  人の子の再臨によって  』 

                                                            

【 聖 書 】 

稲妻がひらめいて、大空の端(はし)から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥(はいせき)されることになっている。

(ルカによる福音書 17章24節~25節)

 

 

ここでイエスさまは、「人の子」という言葉を繰り返されます。ご自身が「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(ルカ9:58)と語っておられたことを思い出します。

 

十字架の死と復活、そして昇天をされたイエスが「人の子」として、再び世にお出でになる時のことを弟子たちに語られるのです。教会はそれを「再臨」と呼び、大切に告白して来ました。

 

         **************

 

再臨のイエスによって起こるのは「最後の審判」、つまり「終末」です。イエスさまはここで、創世記のノアの洪水の物語と、アブラハムの甥っ子ロトが暮らしたソドムに襲いかかる、火と硫黄(いおう)による滅びの出来事に触れられます。

 

二つの物語には、共通している重大な警告があるのです。隣人を忘れ、自分の暮らしばかりに明け暮れている者は、失ってしまうものがある、という警告です。

 

         **************

 

聖書の終わり、ヨハネ黙示録22章13節に「私は初めであり、終わりである」という主のお言葉があります。「終わり」を意味する言葉は、原文では「テロス」です。

 

この「テロス」には「目的・目標」という意味もあるのです。黙示録を生み出した教会は、「私は来る」と約束されたイエスの再臨を「アーメン、来て下さい」と祈りながら待ち望みました。

 

         **************

 

「人の子」はただ単に終わりを告げる方ではなく、信ずる者に救いをもたらし、復活と永遠を与えて下さいます。これこそ、今、苦悩しながら生きている私たちへの福音なのです。end

 


撮影は少し古いものです。この案内版の礼拝の時間をみて、礼拝にお出でくださった外国人の方が居られました。感謝。
撮影は少し古いものです。この案内版の礼拝の時間をみて、礼拝にお出でくださった外国人の方が居られました。感謝。

 

2023年10月8日

牧師 森 言一郎 

『  パウロを生かした力の秘密  』 

                                                            

【 聖 書 】 

パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。

(使徒言行録 28章30節~31節)

 

パウロは今ローマに連行されて来ています。

 

元々のパウロは教会の迫害者でした。ユダヤ教の「分派」に過ぎない「この道」をゆるせない人だったのです。そんなパウロが、キリストに出会い回心します。聖霊に押し出され、キリストの福音が「地の果てに向かう」(使徒1章)ための神の器となったのです。

 

とは言え、パウロの歩みは少しも順調ではなく、危険と挫折がいつも伴っていました。

 

**************

 

使徒言行録の最後に、見過ごせない事実が見つかりました。パウロはローマに初めて来たばかりなのに、彼の家には来訪者が絶えなかったのです。一体誰なのでしょう。初めて会う人達なのか。いいえ違います。

 

その答えは、ローマ書16章1節以下にあります。既にローマで信仰生活をしている人々に宛てた手紙の最終章です。

 

**************

 

 

そこにはパウロがどこかで出会い、共に歩んできた「奉仕者」「援助者」「協力者」「母」と紹介される人々の名が綿々とあげられています。

 

パウロが伝道の旅路の中で出会った人びと共に、いつも一所懸命、誠実に「神の国」を分かち合い続けてきた証しです。その中でこそ、最大の宝であり喜びの源である仲間が、家族が、弟子達が与えられてきたのです。

 

**************

 

今、苦楽を共にしている信仰生活の中に「神の国」は見いだされるということです。たとえ平凡で、つたなく、破れに満ちていても、私たちは我々の使徒言行録29章にその足跡を残しながら生きているのです。

 

その旅路はこれからも続きます。end

 

 


2023年10月1日 転入会式が無事に終了して、教会を代表しての歓迎のことばを寿子さんが語る場面です 
2023年10月1日 転入会式が無事に終了して、教会を代表しての歓迎のことばを寿子さんが語る場面です 

 

2023年10月1日

牧師 森 言一郎 

『  もっとも小さき者へ  』 

                                                            

【 聖 書 】 

他方、ラザロという名前の乞食がいて、膿んだ傷だらけで、金持ちの家の門のところに置かれていた。

(田川建三訳・ルカ福音書 16章20節)

 

ラザロ。彼は毎日、誰かに放り出されて金持ちの家の前に置かれ、辛じて生きていた、「膿んだ傷だらけの乞食」でした。また、「金持ちの食卓からこぼれ落ちるもので腹を満たそうとしていた人」でもありました。

 

ラザロは、神にも隣人にも、「助けて」と叫ぶことすら失っている人のように見えます。そんなラザロが死を迎え、天に上げられた時から、思いも寄らぬことが起こり始めるのです。

 

        **************

 

世にあって最も小さくされたラザロは、死後の世界に身を置いた時、彼は信仰の父アブラハムと共に神の国の祝宴に身を置きます。

 

しかし、ほぼ同じ頃に死んだ贅沢三昧の金持ちは、底なしの淵を挟んで祝宴を見るだけで、燃えさかる炎の中、悶(もだ)え苦しみます。

 

彼は慌てて父アブラハムに、「ラザロをよこし、私を助けてください」と願うのです。

 

        **************

 

この譬え話を読むときに思い起こしたいのは、ルカ福音書6章の「平地の説教」です。

 

そこには、「幸いなるかな貧しき者よ、神の国は汝(なんじ)らのもの」というイエスさまの宣言があります。

 

主イエスのお言葉は空手形ではなく、実存のかかった、成就する言葉とし明らかにされているのです。

 

        **************

 

この譬え話のテーマは、死後をいかに生きるかではありません。問題は、今、主のお言葉に聴き従おうとしている者が、これをどう受けとめ、悔い改めを生きるかなのです。

 

ラザロは金持ちの門前で何とか生きていた時、低きにくだり、最も貧しいお方として友となられたイエスと共にあり、御国へ上げられます。

 

 

神の御心は先行するのです。end

 

 


2019年6月 会堂の写真をさがしていて見つかった一枚です。4年前には、6月から4ヶ月間、集会室で、こんな形で礼拝をささげていたのです。紆余曲折、私たち悩みながら今に至っています。
2019年6月 会堂の写真をさがしていて見つかった一枚です。4年前には、6月から4ヶ月間、集会室で、こんな形で礼拝をささげていたのです。紆余曲折、私たち悩みながら今に至っています。

 

2023年9月24日

牧師 森 言一郎 

『  シェマーを読み  キリストに従う  』 

                                                            

【 聖 書 】 

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

        (申命記 6章4節~5節)

 

 

 

モーセは約束の地カナンを目前にしながら、ヨルダンを渡ることをゆるされませんでした。この時、モーセは神さまから託された言葉を語り始めたのです。それが一つにまとめられたのが、『申命記』です。

 

中でも、最重要な教えとして、今日(こんにち)でもユダヤ人が折に触れて祈り続けているのが、「聞け(*シェマー)、イスラエル」から始まるみ言葉です。

 

この、「聞け(*シェマー)、イスラエル」を、イエスさまご自身が本当に大切にされたことが福音書に記されているのです。

 

        **************

 

イエスさまはそのご生涯の最終盤で律法学者から、「先生、律法の中でどの掟が一番重要ですか」と尋ねられます。

 

その際、第一に引用されたのが申命記6章4節で、まず「唯一の主を愛せよ」と仰いました。そして、第二のこととして、レビ記19章18節から「隣人を自分のように愛せよ」と続けられたのです。

 

「唯一の主を愛す」と「隣人を愛す」。この二つの愛は別物ではありません。私たちは、イエスさまが指し示される二つの愛の方向を共に求め、共に悩みながら生きている者です。

 

        **************

 

パウロは、イエスさまご自身が、神の教えに最後まで聴き従ったお方であることを、フィリピ書2章の「キリスト賛歌」で歌いました。

 

「キリストは…死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と。「従順」とは「聴き従うこと」です。

 

「イスラエルよ、聞け」でも、「聞く」だけでなく「従う」ことが一緒に求められています。

 

        **************

 

 

いつまで経っても、未熟で不完全な私たちですが、お招きに応え、主の言葉に終わりまで聴き従いましょう。end

 

 

 


2023年9月18(月)の朝 ある方をお待ちしている時に、ふと思いたって教会の全景を今まで撮影したことのない位置から撮ってみました。これはなかなかいけてるかな?歴史ある献堂100年の部分も右側によく見えます。
2023年9月18(月)の朝 ある方をお待ちしている時に、ふと思いたって教会の全景を今まで撮影したことのない位置から撮ってみました。これはなかなかいけてるかな?歴史ある献堂100年の部分も右側によく見えます。

 

2023年9月17日

牧師 森 言一郎 

『  足りないくらいで良いのです  』 

                                                            

【 聖 書 】 

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

        (コリントの信徒への手紙 二 12章9節)

 

 

星野富弘さんは24歳(1970年)の時、中学校の体育教諭としてクラブ活動指導中、得意だった鉄棒から落下。首から下の運動機能を失います。

 

事故から二年後、星野さんは病室で口に筆をくわえ、文や絵を描(か)き始めたのです。さらに二年後、病床洗礼を受けてクリスチャンとなります。

 

お母様、奥様、多くの方々に支えられる中、星野富弘さんは故郷・群馬県東村(あずまむら)のお住まいの近くの畑の道を電動車椅子で歩きながら、見つけた草花を描き続けています。

 

        **************

 

私は20代の半ば、B型肝炎との先の見えない闘病、入退院を繰り返し始めた頃、星野さんの詩画集に出会って救われました。

 

先日、『あなたの手のひら』(1999年・偕成社)という詩画集の後書きを読んでいて深く慰められ、教会生活の希望を与えられました。それは、パウロが第二コリント書12章で語る、「弱さ賛歌」の言葉に通ずるものでした。

 

今号は、その言葉を紹介して終わります。私たちの信仰生活に重ねて読んでみましょう。

 

        **************

 

手や足が使えなくなって、できなくなったことはたくさんありますが、できるようになったこともたくさんあります。詩を書くようになったのもその一つです。

 

絵と文字という別のものを、一枚の紙の中に描いていくうちに少しずつ分かってきたのですが、絵も詩も少し欠けていた方が良いような気がします。欠けている者同士が一枚の画用紙の中におさまった時、調和のとれた作品になるのです。

 

 

これは詩画だけでなく、私達の家庭も社会も同じような気がします。欠けている事を知っている者なら、助け合うのは自然なことです。end

 


旭東教会で今も大切に使っている紙芝居のための木製の枠組み・舞台です。
2023年9月10日(日)光代さんが礼拝にて読んで下さった紙芝居のために用いられた木製の紙芝居の枠組み・舞台です。ずーーーーつと眠っていた年代ものです。現在ではどこにも売っていないはず。色を誰かに塗り直してもらって再生させるのがいいのか、このままの方が味があるのか。いかがでしょう(^^♪

 

2023年9月10日

牧師 森 言一郎 

『  宴会を大切にする生き方  』 

                                                            

【 聖 書 】

主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない。』

(ルカによる福音書 14章23節~24節)

 

キリスト教会は「宴会」を大切にしています。ですから、私たちは堂々と、「うちの教会の宴会に、あなたも一度来てみない?」と誘ってもよいのです。

 

        **************

 

しかし、私たちはイエスさまが譬え話で語られる「宴会」の本質を知っておく必要があります。イエスさまは私たちを「大宴会」にお招きくださるのですが、それは「酒宴」のことではありません。「神の国」のことであり「礼拝」なのです。

 

        **************

 

イエスさまは譬え話を用いながら、せっかく「宴会」=「神の国」への招きを受けたにもかかわらず、もっともらしい理由を口にして断る三人を描きます。

 

彼らは破れのある言い訳を恥ずかしげも無く口にするのですが、その破れに気付きません。「聖書は鏡」であることを思い起こすなら、ここに登場する人々は私たちの姿そのものなのです。

 

        **************

 

その後イエスさまは、神の国の本質を明らかにされる招きを語り続けられました。

 

それが、『急いで町の広場や路地へ行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れて来なさい。』というお言葉です。

 

        **************

 

招きを受けているのは、世にあって小さくされ、周縁に置かれ、一人前に扱われない人々でした。

 

そのような人たちを「無理にでも連れてきて、この家をいっぱいにせよ」とのお言葉は「神の国」の本質を告げるものです。

 

実に、この非常識にも聞こえる招きがあるからこそ、私たちは教会に集い、神の国を証しする礼拝を日曜日毎(ごと)にささげ続けるのです。endいます。end

 

 


2023年9月3日(日)この日から、新来会者がお出でになった時に受付で手渡すセットの透明のビニール袋に入れ始めたプリントです。ホームページを冊子型にしています。
2023年9月3日(日)この日から、新来会者がお出でになった時に受付で手渡すセットの透明のビニール袋に入れ始めたプリントです。ホームページを冊子型にしています。

 

2023年9月3日

牧師 森 言一郎

 

『 パウロを支えた喜びの力 』 

                                                            

【 聖 書 】

ローマからは、兄弟たちが私たちのことを伝え聞いて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。

(聖書協会共同訳*一部漢字変換、使徒言行録 28章15節)

 

パウロの伝道の旅路は、紆余曲折、波瀾万丈、一難去って又一難でした。直前の出来事で申し上げるならばマルタ島への難破を経て、願い求めていたローマに辿り着くのです。

 

パウロはローマの信徒への手紙を記した人ですが、これまでイタリアも、ローマにも来たことはありませんでした。

 

         **************

 

一体ここではどのようなことが待ち構えているのか。多少なりともの不安や恐れ、緊張はあったに違いありません。

 

けれども、それは杞憂に終わります。いいえ、パウロは自身の旅路を冷静に振り返ってみるならば、いつも、不思議な形で助け手が与えられ、主イエスにあって同労者になってくれる人、弟子となってくれる人が与えられてきました。身を寄せる場所、食べることを助けてくれる人、祈ってくれる人がいつも居たのです。

 

使徒言行録18章に記録される一年半以上に及んだという「コリント」での伝道の日々がそうでした。それはパウロの宝となり自信となったのです。

 

         **************

 

ローマを目前にしての港町プテオリでも七日間にわたって「兄弟たち」と呼ぶ同信の仲間たちがあたたかくパウロら一行を迎えてくれました。そしてここでは、ローマから出向いてきてくれた人々が居たのです。

 

パウロは純情で素朴な人だったと思います。使徒言行録を記したルカは、「パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた」と記します。

 

 

私たちもこのような相互の交わりの中に生きたい。私はいつもそう祈っています。end

 


2023年8月27日 久しぶりに再会を果たした皆さんで ほっとタイムの時の笑顔
2023年8月27日 久しぶりに再会を果たした皆さんで ほっとタイムの時の笑顔

 

2023年8月27日

牧師 森 言一郎

 

『 山に登って 見渡せなくとも 』 

                                                            

【 聖 書 】

このアバリム山(さん)に登り、私がイスラエルの人々に与えた土地を見渡しなさい。

                        (民数記 27章12節)

 

荒れ野の40年近い旅路を経て、乳と蜜の流れる約束の地・カナンを目前にした荒れ野の40年近い旅路を経て、乳と蜜の流れる約束の地・カナンを目前にしたモーセに対して主が告げられたのが上のみ言葉です。

 

言い換えるならば、「モーセよ、あなたの務めはここまでだ」ということです。

 

        **************

 

この先、申命記31章でモーセはイスラエルの民に、「私は今日(きょう)、既に百二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない。主は私に対して、『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた。」と語ります。

 

さらに、申命記の最終章34章でも、「モーセはピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。」とあるのです。

 

        **************

 

注目したいのは、「山に登って約束の地を見渡せ」というお言葉です。モーセは山頂で約束の地を見渡し、神が指示された通り、僕(しもべ)ヨシュアにバトンを渡します。

 

モーセはヨルダンを渡ることは出来ないのです。でも、彼は納得し満ち足りていました。これは、神の国の完成を目指す私たちの信仰の在り方、生き方を静かに問うてくる場面です。

 

        **************

 

「時」について語るコヘレトの言葉3章を読み直してみました。

 

ここでは11節を記します。

 

「神は永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」とあります。

 

        **************

 

ピスガの山頂で、モーセには旅の終わりが告げられていますが、同時に、ここには神の民イスラエルの始まりがあります。

 

最後にひと言。イエスは山に登ることが出来ない者のために世に降(くだ)ってこられます。

 

「愛の極み=救い」は、そこで明らかにされるのです。end

 

 

 


森牧師が兼務する十文字平和教会の夜の礼拝堂
森牧師が兼務する十文字平和教会の夜の礼拝堂

 

2023年8月6日

牧師 森 言一郎

 

『 たがいに結ばれる教会 』 

                                                            

【 聖 書 】

イェルサレム、それは(仲間が)互いに結ばれる町として建てられている。(詩編122篇3節・勝村弘也訳)

 

「都上りの歌」・「巡礼の歌」に分類される詩編122篇。ユダヤの人々は、地域の仲間たちと、親戚や家族同士が連なってエルサレムを目指すのです。律法に従い、例えば、過越祭にはエルサレムに行く。神の教えに忠実に生きようとする人たちにとって喜びでした。

 

上にご紹介した詩編122篇3節は勝村弘也という旧約学の先生の翻訳です。ぜひ、お手元の新共同訳と比べてみてほしいと思います。

 

**************

 

1節には「主の家に行こう、と人々が言ったとき私はうれしかった」とあるのですが、「主の家」とは神殿のあるエルサレムのことです。

 

遠方からの巡礼であればあるほど、格別な喜びがあったのだろうと思います。だから2節には「わたしたちの足は立っている」とわざわざ表現するのです。

 

**************

 

ところで、私たちがクリスチャンとしてこの詩編を味わうときに必要なのは、神殿に詣でることを想像するのではなく、週毎の礼拝を思い浮かべることです。

 

誰かに誘われ一緒に礼拝に出席すること。それは、平凡ですが、私たち信仰者にとってもっとも貴いことです。これ以上の幸せはないと言い切れます。私たちの人生はある意味巡礼の旅の連続なのです。

 

週毎の礼拝は、世の暮らしを中断しているようでありながら人生の大きな意味での旅の途上にある掛け替えのない時です。

 

**************

 

主の家において明らかにされる恵みは何か。

 

 

それぞれに違う旅路を歩んできた多様で雑多とも言える存在である私たちが、礼拝において、み言葉という一つの糧を分かち合う中で「キリストの体」である神の家族として結び合わされることです。end

 

 


2023年7月30日 小学校に入学して以来久しぶりに来会の双子ちゃん。身長が数ヶ月で5㎝伸びたのでは!と感じるほどでした。手話賛美に集中の場面です。
2023年7月30日 小学校に入学して以来久しぶりに来会の双子ちゃん。身長が数ヶ月で5㎝伸びたのでは!と感じるほどでした。手話賛美に集中の場面です。

 

2023年7月30日

牧師 森 言一郎

 

『 イエスの覚悟  弟子の覚悟 』 

                                                            

【 聖 書 】

その日の一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。

(ルカによる福音書 9章57節)

 

ルカ福音書が描くイエスさまの生涯の分岐点は9章51節「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」というみ言葉にあります。

 

イエスさまが世にお出でになったのはエルサレムでの十字架の出来事にあることを読者に注意喚起するのです。

 

          **************

 

その表情は強い決意を明らかにされているもので、「顔を固めた」というのが聖書原文の直訳です。

 

弟子たちはその表情の変化に気付いていたのでしょうか。

 

          **************

 

決意を固められたイエスさまは弟子たちと共にサマリア人の村にお入りになります。「善きサマリア人の譬え話」や「サマリアの女」の記事等から、サマリアとイエスの関係は良好という勝手な印象があります。

 

しかし、ことは単純ではありません。彼らはユダヤ人の都エルサレムに向かうイエスに、これっぽっちも好感も抱いていません。弟子たちは、「天から火を降らせてサマリア人を焼き滅ぼしましょうか」と勇ましいことを言いました。

 

しかし、主は弟子たちを厳しく戒められます。

 

          **************

 

一行は先に進みました。「あなたのお出でになる所なら、どこへでも従って参ります」という人を筆頭に、三人の人がイエスさまの前に進み出るのです。

 

三人は、「父の葬儀で葬りがあります」等と上手に言いわけをして、厳しさが増し始めているイエスさまに従うことから逃れようとしたのです。

 

 

12弟子はその様子を見ながら、自分たちの姿が鏡に映し出されていると感じるような経験をしたはずです。言い訳の多い私たちこそ、身を引き締め、み足跡に従うことが求められます。end

 

 

 


2023年7月23日 礼拝の中の「みんなの教会学校」で、聖書に出てくる、船や舟を紙芝居と絵本で紹介する森牧師。最後は「なぜ、聖書には度々はふねが出てくるのでしょう」という問い掛けがありました。
2023年7月23日 礼拝の中の「みんなの教会学校」で、聖書に出てくる、船や舟を紙芝居と絵本で紹介する森牧師。最後は「なぜ、聖書には度々はふねが出てくるのでしょう」という問い掛けがありました。

 

2023年7月23日

牧師 森 言一郎

 

『 向こう岸へ渡る教会 』 

                                                            

【 聖 書 】

その日の夕方、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 (マルコ福音書 4章35節) 

 

 

皆さんは「からし種(だね)」を実際にご覧になったことがあるでしょうか。からし種は、本当に驚くほど小さなものです。

 

イエスさまが弟子たちに、舟に乗って「向こう岸へ渡ろう」と言われる直前に、「からし種」が「神の国」の福音の鍵だと譬え話の中で教えられたのは、偶然ではありません。

 

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12人の弟子たちは、世にあって特段注目を集めるような存在ではありませんでした。「からし種」のような小さな者に過ぎないのです。でもイエスさまは彼らを必要とし、育てようとされます。

 

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「向こう岸」は「異邦人」の地であると同時に、「未知の世界」の象徴です。13人が乗り込んだ「舟」は「教会」のことを暗示していることを心に留めましょう。

 

彼らは命の危機を感じる嵐の中で、「溺(おぼ)れても何とも思わないのですか」と叫ぶのです。

 

イエスさまは熟睡しておられました。おもむろに起き上がられた後(のち)、湖を叱(しか)りつけ、凪=平安を与えられます。インマヌエルのイエスが救い主であり、創造の主であることを示されました。

 

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向こう岸で待ち受けていたのは墓場に追いやられ、鎖に繋がれた「レギオン」と名乗る人でした。

 

レギオンは、「神の国」とは正反対の、ローマの「悪の力による支配」を意味します。その力に縛り付けられ、社会の隅っこに追いやられている存在を意味しているのです。

 

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イエスさまは、この出会いを通じて、からし種である弟子たちに対して、神の国の不思議な働きと広がりを教えられるのです。共にイエスが居られる教会という名の舟は、嵐の中でも、主と共に「向こう岸」に渡ります。end

 

 

 

2023年7月16日 礼拝後にそうめんを楽しむ会を行いました。自由にトッピングして、お汁を掛けるところです。
2023年7月16日 礼拝後にそうめんを楽しむ会を行いました。自由にトッピングして、お汁を掛けるところです。

 

2023年7月16日

牧師 森 言一郎

 

『 メリバにて  魂の渇き 』 

                                                            

【 聖 書 】

なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせ、こんなひどい所に導き入れたのか。ここには・・・飲み水さえもない。

(民数記 20章5節)

 

 

エジプトからの解放を約束された神の民イスラエル。荒れ野の旅路は民数記20章で既に40年目に入ります。またもや騒動が起こるのです。

 

のちに、「メリバの水」と呼ばれるようになる出来事です。水を確保できない民がモーセに詰め寄ります。

 

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命の水の枯渇(こかつ)に見る彼らの渇きと恐れは、単なる喉の渇きを意味しているのではありません。彼らは魂の渇きを抱えていました。

 

私どもも無自覚のうちに命の渇きを抱えて生きていることがあります。出エジプト記17章によく似た水を求める民の不従順が記録されています。あれは、「メリバの水」と同じ出来事ではなく、人が生きていく上で同様の過ちを犯すことを暗示しているのです。

 

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モーセは神さまに指示を仰ぎます。

 

すると、「杖を取り、岩に向かって、水を出せと命じなさい」というお言葉を受けたのです。

 

ところがモーセは、神さまからの約束のお言葉だけに、信頼することができませんでした。

 

彼は岩に向かって、「水を出せ」と命ずるだけではなく、「岩を二度打った」のです。神さまはモーセの信頼の薄さを見抜かれました。これゆえモーセは、「あなたたちは私の聖なることを示さなかった」と厳しい叱責を受けます。これは、私たちへの注意喚起でもあります。

 

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私たちも、私たちの荒れ野の40年において、神の言葉を疑ってしまいます。徒党を組む民も、岩を二度打つモーセも、我々とさして変わりません。

 

だからこそ主イエスは、「信じる者になりなさい」と、今日も、明日も、お招きくださるのです。end

 

 

 


2023年7月9日 みんなの教会学校で紙芝居を用いてパウロのカイサリアへの連行の場面を語る森牧師です。珍しい紙芝居かと思います。
2023年7月9日 みんなの教会学校で紙芝居を用いてパウロのカイサリアへの連行の場面を語る森牧師です。珍しい紙芝居かと思います。

 

2023年7月9日

牧師 森 言一郎

 

『 暴風・漂流・難破 のち  マルタ島 』 

                                                            

【 聖 書 】

私たちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。(使徒言行録 28章1節)

 

ユダヤからローマへと船で「護送」されるパウロはついに「上陸」を果たします。正確に言うならば「漂着」したに過ぎません。そこがどこであるのか、パウロにはわかりませんでした。

 

いいえ、船乗りも兵士も囚人も、誰にもわからなかったのです。立った場所は「マルタ島」でした。

 

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彼らはずっと、暴風と漂流の中におりました。「太陽も星も見えず、助かる望みは全く消えた」と聖書にあります。

 

すべてを海に「投げ捨て」なければならず、「積み荷」も「海錨(かいびょう)」も「船具(ふなぐ)」も諦めたのです。最後は難破した「船」も捨てました。

 

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暴風・漂流・難破・漂着と続いた使徒言行録27章の海路(かいろ)は、私たちの人生そのものです。そんな中でのパウロの言葉は不思議な程に落ち着きがあり、確信に満ちたものでした。

 

彼には生きていく上での目標がありました。だから強かった。パウロは天使が伝えた、「あなたがたは必ずどこかの島に打ち上げられる」との言葉を信じました。神さまに一切を委ねて生きる。私たちが倣うべき姿があります。救いの道はここから拓けるのです。

 

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マルタの人は「バルバロイ」と呼ばれる異邦人でしたが実に親切でした。パウロはイエスさまが遣わされた72人の弟子たちに与えられていた以上の力を発揮し、蝮(まむし)に噛まれても死なず、3ヶ月の間、人々を癒し続けます。福音も語った。

 

彼は単なる奇跡能力者ではありません。聖書はパウロの背後に隠された神のみ心を伝えるのです。

 

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我々も人生途上の暴風や漂流を経て教会に漂着しました。上陸した私たちに託されるご計画を神さまはお持ちです。

 

救われた私たちの旅は続きます。end

 

 


2023年7月2日 ハンセン病国賠訴訟瀬戸内訴訟の貴重な記録の原本コピーを元に、森牧師がみんなの教会学校メッセージをしているところです。
2023年7月2日 ハンセン病国賠訴訟瀬戸内訴訟の貴重な記録の原本コピーを元に、森牧師がみんなの教会学校メッセージをしているところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年7月2日

牧師 森 言一郎

 

『 帰って来たサマリア人(じん) 』 

                                                            

【 聖 書 】

 その中の一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇(あが)めながら戻って来た。

                 (ルカによる福音書 17章15節)

 

イエスさまはエルサレムへ向かわれる途中、特別な地の「間(あいだ)」を選んで進まれます。

 

サマリアとガリラヤの「間」・「境界」には、「深い淵」があります。歴史的な事情により、サマリア人(じん)とユダヤ人は互いに交わりを避けていました。彼らは犬猿の仲なのです。

 

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しかしイエスさまは、そこへ追いやられた人々に対して、憐れみを注がれるのです。イエスさまが「間(あいだ)」で出会われたのは「重い皮膚病」で苦しむ人々でした。

 

普通なら、彼らは肩を寄せ合って生きる様な人たちではありません。しかし、ここでは十人の人たちが、「私たちを憐れんでください」と声を揃えて救いを求めたのです。

 

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この時イエスさまは不思議な言葉を口にされます。「祭司の所へ行って体を見せなさい」というのです。

 

レビ記13章には、清くなった人は祭司の所へ行く、との定めがありますが、イエスさまはここでまだ癒される前に、「祭司の所へ行け」と言われた。やがて、お言葉に従った十人は、皆、途中で清くされたことに気付きます。

 

ところが、くるりと向きを変え、大きな声で神を賛美しながら戻って来たのはサマリア人一人だけでした。

 

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「間(あいだ)」を通って進まれたイエスこそが、「み神の座を捨て、人となられた主、まことの王なる、まことの祭司」(讃美歌21-291)なのです。

 

サマリア人は心からの感謝を捧げながら戻って来てイエスの足もとにひれ伏します。これは礼拝する人の姿です。

 

ルカは神を崇(あが)める小さき者を意図して描きます。

 

イエスの母マリアは「マリアの賛歌」において主を崇めます。ローマ皇帝による住民登録の対象にもならない羊飼いたちは、飼い葉桶のイエスを大きな声で賛美しながら帰って行きました。end

 


2023年6月25日 聖歌隊の練習のあと、「皆さんに僕はお世話になって来たことを、御礼を・・・」の言葉のあとの凌汰くんと寿子さん
2023年6月25日 聖歌隊の練習のあと、「皆さんに僕はお世話になって来たことを、御礼を・・・」の言葉のあとの凌汰くんと寿子さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年6月25

牧師 森 言一郎

 

『 ヤイロに信仰を伝えた女(ひと) 』 

                                                            

【 聖 書 】

 女は隠しきれないと知って震えながら進み出てひれ伏し、イエスに触れた理由とたちまち癒やされた次第とを民全員の前で話した。

                 (ルカによる福音書 8章47節)

 

 イエスさまの元に進み出てひれ伏し、「12歳の娘」の救いを懇願した「ヤイロ」。彼は地域でも名の知れた会堂長でした。律法に通じていた人であり世話役です。

 

そんな人が、イエスにひれ伏してまでして救いを求めるのはスキャンダルでした。しかし、彼は勇気を出して一歩を踏み出したのです。

 

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ところが、イエスさまはヤイロを後回しにされます。優先されたのは、何としても救われたいと願い、群衆に紛れ込んでまでしてイエスの後ろから近付き、主の衣の房に触れた「無名の女(ひと)」でした。

 

彼女は12年間出血が続いていました。ヤイロの娘が生まれてからここまでの12年とピタリと重なります。その間、無名のこの女(ひと)は律法の規定によって、家族は元(もと)より、地域から離れて生きなければなりませんでした。

 

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主の衣の房に触れてまでして救いを求める姿から、「生きて行きたい」という強い意志が伝わってきます。皆の前で全てをありのままに伝えたこの女性の祈る心を、イエスさまは受けとめられ、憐れみ、慈(いつく)しまれたのです。

 

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ヤイロは、長血(ながち)の女とイエスさまの一部始終を、すぐ側(そば)で聞いていました。ヤキモキしたことでしょう。時が止まっている、と感じたはずです。

 

案の定、「娘さんは亡くなりました」との報が届くのです。

 

けれども、ヤイロの家に向かわれたイエスさまは、「ただ、信じ続けなさい」と言われた。手をとられた12歳の娘に、霊なる命が戻ってきました。

 

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信じ切れていなかったヤイロ。彼は、娘が起き上がった時に驚愕(きょうがく)します。

 

ヤイロに信仰の道を教えたのは、この「長血の女」の存在だったのです。end

 

 


2023年6月18日 民数記13章~14章の説教で「エシュコルの谷の一房のぶどう」(民13:22以下)について語る森牧師
2023年6月18日 民数記13章~14章の説教で「エシュコルの谷の一房のぶどう」(民13:22以下)について語る森牧師

 

2023年6月18

牧師 森 言一郎

 

『 荒れ野四十年始まり 』 

                                                            

【 聖 書 】

そこで、向きを変え、明日、葦の海の道を通って、荒れ野に向けて出発しなさい。

(民数記 14章25節)

 

 西暦250年頃に至るまでの初期キリスト教徒の教会生活の断片を紹介する『カタコンベの教会』(聖文舎・1968年)という本があります。洗礼を受けた人が初めて聖餐にあずかる時に準備されたものは、「ミルクと蜂蜜」だったというのです。

 

「パンとぶどう酒」ではないのが不思議ですが、理由は明確です。受洗者が、「乳と蜜の流れる約束の地」に入ったことを象徴する意味があるからです。

 

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エジプトでの奴隷状態からの解放のみ業を神さまが始められる決断を下された時の様子が、出エジプト記3章7節に記されています。民の苦しみをご覧になった主は、「乳と蜜の流れる土地へと導き上る旅」に責任をもって立ち上がられるのです。

 

イスラエルの民は不平不満ばかりを口にします。12部族を代表する者たちが斥候(せっこう)として約束の地カナンに潜入した時の様子が報告されます。

 

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「悪い情報」にふれた人々は怖じ気づき、「死んだ方がましだ」とまで言いだします。「巨人」が待ち構える約束の地に、「いなご」のような小さな民が進むことなどできるはずがない、と泣き叫ぶのです。

 

民に対して怒りを露わにされる神。必死になって執り成すモーセの声が聞こえます。神さまは厳しいお仕置きを決断されました。向きを変えさせて始まるのは、「荒れ野の四十年」でした。

 

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私たちは、「荒れ野」を旅する年月の中で、一人の信仰者として、信仰共同体として整えられて行くのです。

 

主なる神は「小さな者」を決して見捨てたりはなさいません。

 

イエスを信頼する者に、「乳と蜜の流れる神の国」を約束されています。end

 

 

 


2023年6月11日 使徒言行録27章後半からの説教で、この日の中心主題はこれです、と語る森牧師
2023年6月11日 使徒言行録27章後半からの説教で、この日の中心主題はこれです、と語る森牧師

 

2023年6月11

牧師 森 言一郎

 

『 〈錨(いかり)〉のイエスに守られて 』 

                                                            

【 聖 書 】

そこで、錨(いかり)を切り離して海に捨て、同時に舵(かじ)の綱(つな)を緩め、吹く風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。

                    (使徒言行録 27章40節)

 

 

 囚人として海路ローマに向かうことになったパウロ。

 

船は激しい嵐に巻き込まれ、座礁の危機の連続でした。この時のパウロを支えていたのは、20年余りの宣教の旅の中で身につけた、「弱い時にこそ強い」(第2コリント書11~12章参照)という信仰です。

 

難破直前に現れたみ使いから、「恐れるな=大丈夫だ」の声を聴き、ローマでキリストを証しする使命も、再度、明確に示されていたのです。

 

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生命(いのち)の危機にさらされ続ける船は「教会」を暗示しています。276名が乗り込んでいた船から、「積み荷」も「船具」も大切な「穀物」も、海に投げ捨てる事態に陥ったのです。

 

遂には、航海を守るための最後の砦(とりで)とも言える「錨(いかり)」すらも、全て切り捨てます。

 

助かる望みが消え失せようとしていた人々は、何を頼みとすればよいのでしょう。

 

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NHKの「ラジオ深夜便」という放送は毎晩11時から午前5時まで放送されている長寿番組です。どこかで聞いたことのある声が、深夜の孤独や不安を覚えるリスナーに「安心」を届けてくれています。

 

放送ではアナウンサーのことが「アンカー」と呼ばれます。日本語にするとそれは「錨(いかり)」です。

 

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私たちも人生という名の航海で嵐を経験し座礁します。一切を失ったと感じることがある。

 

しかし、「錨」であるキリスト・イエスは、私たちを決して見過ごしにはなさいません。命懸けで私たちの「錨」で在り続けようとし、「港」へと導かれるのです。

 

パウロのほか275名全員は、嵐・漂流・難破を経て、全員がマルタに立っていました。end

 

 

 


2023年6月4日 三位一体主日  礼拝の中のみんなの教会学校で、ファリサイ派について語る森牧師
2023年6月4日 三位一体主日  礼拝の中のみんなの教会学校で、ファリサイ派について語る森牧師

 

2023年6月4

牧師 森 言一郎

 

『 〈ニコデモ〉へ  愛を込めて 』 

                                                            

【 聖 書 】

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 ヨハネによる福音書 3章3節

 

 

 「夜」の訪問者ニコデモ。彼はユダヤ人の中でも生真面目なファリサイ派の指導者です。

 

イエスさまに直接会ってどうしても教えて頂きたいことがあったのですが、その立場上、人目を避ける必要がありました。だから「夜」こっそりと訪ねます。

 

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ニコデモとイエスの問答で気になる言葉があります。ヨハネ福音書では、この場面だけでしか使われていない言葉だからです。

 

それが「神の国」です。

 

ニコデモはイエスさまから、「あなたは新たに生まれなければ、神の国を見ることも、入ることもできない」と言われ、途方に暮れました。

 

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聖書の中で、塵に過ぎない人間に最初に「息」が吹き入れられるのは創世記2章7節です。

 

そのことを確かめた上で、今日のみ言葉を読むと、一筋の道が見えてきます。ヨハネ福音書において「息・聖霊・風」はすべて同じ言葉=「プネウマ」を別々の日本語に訳し分けたものだからです。

 

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イエスさまが十字架の上で「成就した」と言われ、「息」を引き取られたとき、ニコデモはそこに居たのです。

 

主がこうべを垂(た)れ、救いのために「息」を吐き尽くされたとき、ニコデモはその「霊」を受けました。

 

「霊」によって新しくされた彼は、イエスさまの埋葬のために立ち上がるのです。

 

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世を恐れ、家中の鍵を掛けて身を隠していた弟子たちに、復活の主イエスは顕(あらわ)れます。そして、「聖霊を受けよ」と言われ「息」を吹き込まれたのです。

 

聖書は私たちの鏡、私たちの物語です。end

 

 


アーカイブ 2023年5月28日 ペンテコステ・聖霊降臨日の礼拝堂の聖餐卓です。
アーカイブ 2023年5月28日 ペンテコステ・聖霊降臨日の礼拝堂の聖餐卓です。

 

2023年5月28日

牧師 森 言一郎

 

『 故郷の言葉で語りなさい 』 

                                                            

【 聖 書 】

どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 使徒言行録 2章8節

 

 キリスト教会が世界各地に誕生する切っ掛けとなった出来事。それが聖霊降臨(せいれいこうりん)です。

 

「父の約束されたものを待ちなさい」というイエスさまのお言葉を信じて祈りを合わせていた人々の上に、「聖霊」は降(くだ)ったのです。

 

聖書は、「激しい風が吹いて来るような音がし、炎のような、舌のようなものが、使徒たちの上にとどまった」と告げます。

 

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使徒たちが受けたもので一番大事なのは「舌」だったと思います。弟子たちは、「ぶどう酒」に酔っているかのように、「舌」を使い、よその国の言葉で、「神の偉大な業」を語り始めるのです。

 

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当時、地中海世界の各地には、エルサレムから散って行ったユダヤ人が暮らしていました。

 

彼らは、ユダヤ人がユダヤの社会で使っているアラム語ではなく、各地で使われている言葉を、「自分の生まれた故郷の言葉」として身につけていきました。

 

地域に溶け込み、たくましく生き抜いたのです。

 

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そんな彼らも、エルサレムに戻って来たときは、異邦人の地で使っていた「よその国の言葉=私たちの言葉」を使いません。都エルサレムで異邦人の言葉を口にすることなどあり得ないのです。

 

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ところが、のちに「ペンテコステ」と呼ばれるようになる日、神さまは思いも寄らない出来事を起こされました。

 

ガリラヤ出身の無学な弟子たちが、炎のような聖霊によって、「神の偉大な業」を、世界各地の言葉で語り始めたのです。

 

様子に気付いたエルサレムに戻って来た人々は驚き怪しみました。でも、内心は嬉しかったのです。

 

私たちは「ペンテコステ」を昔話にしてはなりません。end

 

 


アーカイブ 2020年6月26日(金)10時44分 「のぞむさん」の洗礼式の間 病院ロビーで待つお二人
アーカイブ 2020年6月26日(金)10時44分 「のぞむさん」の洗礼式の間 病院ロビーで待つお二人

 

2023年5月21日

牧師 森 言一郎

 

『 恩返しの旅路を生きる 』 

                                                            

【 聖書 】

今では、私たちの魂は干上がり、私たちの目に入るのは、このマナのほかは何もない。

             民数記11章6節  *聖書協会共同訳より

  

エジプトでの奴隷状態から解放された民は、約束の地に向けての途上にあります。「シナイの荒れ野」に1年間留まるうちに思いがけず「律法」が授けられました。

 

荒れ野には大変な苦労もあったと思いますが、根底において彼らには希望があるはずでした。

 

ところが、彼らは激しい不満を口にします。以前も同様のことを口にしていましたが、今度は、「マナばかりで魂が干からびる」とまで言います。この時、神の怒りが激しかったと民数記11章は伝えるのです。

 

         **************

 

私は大相撲が大好きです。大相撲の世界でよく耳にするのが「恩返し」という言葉です。先日は、引退することを発表した元大関・栃ノ心(とちのしん)関について、「鍛えてもらったことを生かして、少しずつでも恩返していきたい」と朝乃山というお相撲さんが語っていました。

 

私たちの人生にも「恩返し」すべき人が間違いなくいるのです。ところが、私たちは「恩知らず」な振る舞いをしてしまうのです。

 

         **************

 

「恩」とはどういう意味があるのか国語辞典を引きました。「人にしてもらった感謝すべき事柄」とあります。

 

類語として「めぐみ」「情け深い」「いつくしみ」という言葉が出てきます。これは「神の愛」そのものです! 

 

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大相撲風に言うならば、私たちは神さまから頂いた救いへの「恩返しの旅」の途上にあることに気付くのです。

 

不平不満が余りに過ぎるとき、神さまは私たちに「雷」を落とされます。

 

イエスさまはその怒りを「十字架」の上で私たちの身代わりに受けられました。end

 


アーカイブです 7年前・2016年の「ペンテコステ・聖霊降臨日」にはこちらが準備されました(^^♪ 今年はどんな鳩が降って来るかな?
アーカイブです 7年前・2016年の「ペンテコステ・聖霊降臨日」にはこちらが準備されました(^^♪ 今年はどんな鳩が降って来るかな?

2023年5月14日

牧師 森 言一郎

 

『 百人隊長の信仰 』 

                                                            

【 聖書 】

主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありません。

        ルカによる福音書7章6節  *新改訳2017より

 

 

 

舞台はガリラヤの港町「カファルナウム」。主人公は「百人隊長」を務める異邦人です。彼は真面目な男だったのだと思います。

 

聖書の行間を読んでの私の想像ですが、百人隊長は、職務に忠実であるためには、鬼のような決心をしなければなりませんでした。部隊の者たちに命を懸けさせてでも「行け」と命じなければならなかったでしょう。

 

 

百人隊長には神さまが必要でした。

 

もちろん救いもです。

 

**************

 

百人隊長が頼りにしていた「下男(げなん)」(塚本訳)が居りました。下男は兵士ではなく、あくまでも身辺の世話をしてくれる「僕(しもべ)」です。

 

この下男。百人隊長にとって本当に大切な存在でした。百人隊長はその立場ゆえに、兵士たちの前で弱音を吐くことができません。

 

 

でも、この僕の前では、ぼやきも不安も、悔いも、安心して話せたのではないかと思います。そんな僕が危篤なのです。だからこそ、百人隊長はユダヤ人長老たちの力を借りてまでして救いを求めました。

 

**************

 

イエスさまが近くまでお出でになったとき、百人隊長は、「あの方をお迎えできるような資格はない」と悟ります。これを伝えないわけにはいきません。

 

だからこそ友人たちを通じて、「自分には資格がない」=「私は罪人に過ぎない」と伝えてもらったのです。

 

「言(ことば)」である主イエスが向き合ってくださるのは、このような「信仰=生き方」なのです。

 

私たちも倣(なら)える信仰です。僕は癒(いや)されました。end

 


2023年5月7日 礼拝の中で行う みんなの教会学校でのメッセージ中の森牧師。献花の蘭・バンダとカラーの組み合わせが見事です(^^♪
2023年5月7日 礼拝の中で行う みんなの教会学校でのメッセージ中の森牧師。献花の蘭・バンダとカラーの組み合わせが見事です(^^♪

2023年5月7日

牧師 森 言一郎

 

『 神さまのスペシャルな〈選び〉 』 

                                                            

【 聖書 】

あなたの神、主は地の面(おもて)にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分を宝の民とされた。・・・あなたたちは他(た)のどの民よりも貧弱であった。

 申命記 7章6節~7節

 

申命記7章には「選び」にまつわる重要な言葉が二つあります。

 

一つは「宝の民」と呼ばれることです。親しみやすさを大切にする英訳聖書・Today's English Version(*略称・TEV)では「宝の民」を「special people(スペシャル ピープル)」としています。この言葉を私たちにも当てはめて読みたいのです。

 

もう一つ気になる言葉は、神さまが選ばれた民は「貧弱であった」という点です。

 

原文にさかのぼって意味を調べてみました。「little worth(リトル ワース)」=「ちっぽけな価値」とあるのです。驚きました。そして嬉しかった。神さまの「選び」は世間一般の価値判断と異なります。

 

でも、旧約だけでは「選ばれた民」は壁にぶつかります。神さまが出される「律法=方向指示」を(「戒め」「掟」「法」「定め」)「ちゃんと」守り抜くことができない。人間というもの。いつも、いつでも「ちゃんと」はできません。

 

イエスさまが選ばれた12弟子の中には、「罪人(つみびと)」のスタンプを押されていた「徴税人」が含まれます。イエスさまを引き渡すイスカリオテのユダもおりました。否、弟子たちは皆、主のもとから逃げ出す者たちなのです。それは私たちもです。

 

なんと奥深いご計画のある「選び」なのか。限りなく深いわが主の愛に、どう応えましょう。end

 



2023年4月30日

牧師 森 言一郎

 

『 ローマへの船  嵐の中のパウロ 』 

                                                            

【 聖書 】

暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。

 *使徒言行録 27章20節

 

囚われのパウロにはローマに福音を携えて行くという使命がありました。使命は人に力を与えます。パウロは「私たち」と記されている仲間たちと共にローマに向かう船に乗せられていました。

 

ここでの「船」は教会を意味していることを心に留めましょう。

 

「ミラ」という港町で船を乗り換えたのは秋頃のことです。地中海が荒れ始めるのです。案の定、「船足ははかどらず、風に行く手を阻(はば)まれ」ます。

 

当時のパウロは、船旅の知識が増していたようで、無茶で危険な航海にストップを掛けますが、誰も聞き入れません。

 

総勢276名(*使徒言行録27章37節)が乗り込んだ船は「暴風」=「エウラキロン」によってもてあそばれ、木の葉のようにくるくると流されます。積荷を捨て、機具をゆるめ(*「田川建三訳」)、風と波に任せるしかなくなるのです。

 

航海の望みは消え失せました。 しかし、パウロだけは落ち着いていました。希望を失わないのです。

 

ローマ書5章3節に、「苦難は忍耐、忍耐は練達、そして希望」とあります。「苦しみよどんと来い」の信仰がパウロを貫いていました。

 

「あなたの道を主にまかせる時」(讃美歌21 - 528番・1節参照)、神さまは導いて下さいます。end

 


 

2023年4月23日

牧師 森 言一郎

 

『 最初のイースターの焼き魚 』 

                                                            

【 聖書 】

「ここに何か食べ物があるか」と言われた。

 

                 ルカによる福音書 24章41節

 

よみがえりの日、イエスさまが弟子たちに最初に語りかけたお言葉は、「あなたがたに平和」でした。弟子たちには緊張が走ります。

 

様子をご覧になったイエスさまが求められたのが「食べ物」でした。イエスさまに差し出されたのは「焼いた一切れの魚」です。それは残り物だったと思います。

 

その「一切れの魚」をイエスは喜んで食べられた。固唾(かたず)を呑んで見守っていた弟子たちを愛が包みます。ここに、罪人の友となって下さった「人間イエス」がおられるのです。

 

このようになさった後で、イエスは「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」語られます。

 

食べることが先という順序が大切です。教会が食事を重んじるのは実に深い聖書的な理由(わけ)があるのです。

 

そのうえで、ルカによる福音書24章には、イエスさまの〈最後〉の教えが語られています。それは「赦し」です。人間イエスが示されたのち、キリストは「救い」の根拠を「聖書全体」に基づいて語られました。

 

 

最初のイースターの晩の出来事は、その後の弟子たちが、胸を張って生きて行くために、どうしても必要なことでした。end