2017年11月2日(木)140号 『 聖書黙想 マタイの創造 』(会報『緑の牧場34号より』転載)

森 言一郎(もり げんいちろう)牧師、とある日曜日の講壇にて
森 言一郎(もり げんいちろう)牧師、とある日曜日の講壇にて

       聖書黙想

 

     『 マタイの創造 』
                              牧師 森 言一郎

 

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(マタイによる福音書 9章9節より)

 

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徴税人マタイ。

 

彼はガリラヤ北端の町カファルナウムの住人のようです。そしてカファルナウムはイエスさまも「自分の町」として過ごして居られた処のようです。

 

多くの人の往き来に関わる徴税人という仕事柄、マタイのところにはイエスさまについてのうわさ話、風の便りめいたことがあれこれと届いて来ていたと想像できます。

 

しかし、主イエス・キリストの弟子となる者にとって必要なものは、うわさ話でも、人づての話でもないのです。

 

わたしたちに必要なのは主から発せられる生きたお言葉です。それは幾つかの情報の中から、取捨選択することとは違います。

 

このわたしに向かって、イエスさまが発せられる言葉を、わたし自身への招きの声として聴き、何かをそのままにして放り出してでもその声に従っていけるかどうか。そこにかかっています。

 

 

ひとりの詩人の言葉をご紹介します。

 

随筆家であり薬草商もされる、若松英輔さんの初めての詩集『見えない涙』(亜紀書房)におさめられる「薬草」という詩の冒頭の言葉です。

 

誰が命名したのか
言葉は
その名のとおり
植物のはたらきに
よく似ている
予期せぬ場所から
舞い降りて
人生の季節が変わったと
しずかに告げる

 

この第一連の詩を心に留めながら、しばしわたしたちの黙想を深めます。

 

 

この日のマタイはイエスさまとの出会いを、イエスさまからの言葉を、収税所で聴くことになりそうだと、予想できていたのでしょうか。

 

いいえ、違います。彼は不意をつかれたのです。

 

決して、「イエスさま、待ってましたよ」とばかりに立ち上がったわけではない。人生における決定的で、二度と同じことは起こらない出会い。邂逅(かいこう)を経験したのです。

 

「薬草」という詩で詩人が心を寄せているのは〈言葉〉です。

 

そして、その〈言葉〉は、〈予期せぬ場所から 舞い降りて〉来る、と詩人は言葉を紡(つむ)ぎました。

 

福音書記者ヨハネが、彼の記した福音書の序章にあたる1章14節で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という仕方でその来臨を表現したのが主イエス・キリストです。

 

それは、〈予期せぬ場所から 舞い降り〉させる、という神による危険な決断だったことに気がつくのです。

 

 

マタイは聴きました。「わたしに従いなさい」という声を。

 

イエスさまから発せられたそのお言葉が、隣に座っている誰かに向けられたのではなく、収税所に座り続けていた自分に向けられた招きであることを確信したのです。

 

だから、マタイは立ち上がりました。だからマタイは、イエスに従ったのです。

 

ただ、それだけのことです。しかしこの事実は、マタイの〈人生の季節が変わったと しずかに告げ〉ていることに、わたしたちは驚きの心をもってのぞむことが求められます。

 

 

わたしたちクリスチャンにとって、言葉はいのちです。そう感じるための感性の鈍磨が起こらないように、わたしたちは信仰の鍛錬が求められます。

 

それはむずかしいことではありません。

 

何よりもまず、己の内側にある飢えと渇きを知ることです。そのような魂の求めを認める時に、わたしたちは沈黙しつつ、聖書にいのちの言葉を求めます。

 

そして、自ずと祈る者に変えられていくのです。

 

この世に、同じ一日を、昨日も、きょうも、明日も経験した人など存在しません。

 

ところが、わたしたちはしばしば勘違いします。「この言葉は、また、いつか、今日と同じように、わたしに語りかけられる日が来るだろう。また次の機会に」と。

 

 

神のみ子イエス・キリストが、時を選んで発せられるお言葉、出会いに秘められている神さまからの期待を、わたしたちは心にとめる者でありたいのです。

 

パウロは、「誰でもキリストに結ばれる人は、新しく創造された者なのです」(コリントの信徒への手紙二 5章17節)と語りました。

 

徴税人マタイにあてはめるならば、この日投げかけられた「わたしに従いなさい」という単純で素朴なお言葉にこそ、創造のみ業の源泉がありました。

 

 

わたしたちは新たな思いで次のみ言葉を聴きます。

 

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書5章9節)

 

イエスさまはわたしたちキリスト者の「幸い」を「山上の説教」の冒頭で語っておられますが、はっきりと「平和を実現する」ことを重荷として担ってほしいと言われているのです。

 

弟子として歩み出したマタイは、イエスさまに従い続ける中で、主のなさる様々なつとめを自覚させられて行ったことでしょう。

 

まさか、徴税人だった自分に「平和を実現する」という使命が与えられることになるとは、想像もできなかったはずです。

 

しかし、自分では思いもしなかったつとめに仕えることになる人生が開けていくことこそ、クリスチャンとしての創造的な生き方であり、人生の奥深さを知る機会なのです。

 

 

わたし自身、伝道者としての献身の思いを固めたときに与えられていたのは病床にある方々への伝道、という召命感でした。

 

今もそれは変わらないものとして、心の奥深くに抱えています。

 

しかし、それ以上に大切にしたいことが次第に見えてきました。それは、自己実現ではなく、今この時代ならではの証しの立て方、奉仕の仕方、キリスト者としての共同の取り組みがあることへの気付きです。

 

同時に、旭東教会ならではの「平和・シャローム」の築き方への、ひらかれた心と柔軟さをもつ生き方を希求し続けることではないかと考えるのです。

 

 

マタイがマタイとして創造されるのは瞬間のことではありませんでした。12弟子の一人として遣わされ、恥をかきます。

 

ついには、十字架のイエスさまの元から一度は逃げ出してしまう。

 

そのような大失敗を繰り返し、粉々に打ち砕かれながらも、なお、主イエス・キリストの復活のみ業に生かされて、新しい人としての創造的人生を生きて行った。

 

マタイによる福音書が徴税人マタイの記したものであるとするならば、我々はそこにも、主が彼を通してなそうとされた慈しみに溢れるみ業を思わずにはおれません。

 

 

教会で「あなたに平和がありますように」「あなたに平安がありますように」と《平和の挨拶》を交わすことがあります。

 

その挨拶を心をこめて交わせないところで、主の願っておられる平和が生み出されるはずがありません。

 

平和の挨拶を笑顔で交わせる生き方を、始めるところから、マタイに続くわたしたちの創造の物語を歩み出したいと願うのです。end

 

※この黙想は2017年8月6日(日)の平和聖日・主日礼拝で朗読されたみ言葉と、当日の説教を切っ掛けに、会報『緑の牧場』巻頭言の為に、全く新たに書き起こしたものです。